「おやすみなさい、ミスラ」
そう言い残して賢者が部屋を後にした直後、オーエンは姿を現した。
部屋の主は三日月の形の枕を抱いて、穏やかな寝息を立てている。不眠の傷を厄災から与えられたミスラだが、賢者の手を借りると傷は一時的に和らぐのか、眠ることができるらしい。ミスラの眠気が限界に達する頃に、賢者はこうして寝かしつけにきているという。久方ぶりに彼が熟睡できる夜だ。ならばそっとしておいてあげよう、なんて思わない。
今日も殺されかけた。その恨みを晴らす。貴重な睡眠時間を悪夢で台無しにしてやろう。そう考えてオーエンは床に魔法陣を描き始める。何度もこの手でやり返しているため、描くのも手慣れてきた。
描き終えてしばし待てば、やがて唸り声が聞こえ始めた。見やればミスラは苦しげな表情をしている。
そうだ、悪夢を見て疲れをさらに溜め込んでしまえ。溜飲が下がったところで退散しようとすると、ミスラの片手が枕から離れ、まるで助けを求めるかのように空をかき始めた。それをつい掴みそうになってから、オーエンは手を引っ込める。一体何をしているのだ、自分は。助けようとでも思ったのかと自己嫌悪に似た感情を抱いていれば、ミスラがオーエンの手をぐいとつかんだ。
「なっ……」
驚いて振りほどこうとするがミスラの力は強かった。そもそも距離がそこそこあるのにどうやってつかんだのか。ミスラは本当に寝ているとは思えない力でつかんで離さない。ぶんぶんと振っても起きる気配もない。あきらめるほかなさそうだ。
ミスラの寝顔は一転して穏やかなものへと変わっていた。そのことに苛立ちとむずかゆさをおぼえつつ、悪夢を見たのなら熟睡することはないのではないかと思い直す。そろそろ起きるだろう、それまで待つかとオーエンはしぶしぶベッドの横に腰かけた。
だが、そんな予想を裏切ってミスラはしっかりと熟睡していた。このまま一夜を明かすことになるのかと絶望しかけたそのとき、けんじゃさま、という寝ぼけた声が耳に届く。ミスラの瞳は開かれ、視線はオーエンの方へと向けられていた。焦点が合うようになった頃、ミスラは首を傾げてつぶやいた。
「賢者様じゃない……オーエン?」
「悪かったね、賢者様じゃなくて」
「いえ、あなたがいるとは思わなかったので、珍しいと思って。それでなんですか、襲撃ですか? それとも欲求不満ですか? どちらにしろ今はそんな気分じゃないんですが」
「どっちも違うから安心しなよ」
強いていうならば前者であるが。
「ところで、なんで俺とあなたは手をつないでいるんですか?」
「おまえがつかんできたからだよ」
「俺が? ああ、そういえば、夢を見ました」
雪吹き荒ぶ北の国の大地を歩いている夢だったという。目的地にたどり着かず、迷い歩き、歩き通しで疲れ切っていた。視界は真っ白。目印もなくいよいよ倒れるというそのとき、一本の木が目の前に現れた。木はこちらへと導くように枝を揺らしていた。駆け寄って行き、伸ばされた枝をつかめば、雪は止み、目的地へとたどり着いた。そう語り終え、ミスラは手を握り直す。
「まあ、実際つかんでいたのはあなたの手でしたが」
「そうだね」
「あなたのおかげで助かったということになるんでしょうか」
「そうかもね」
眠気に勝てなくなってきたため、適当に答えておく。オーエンの手をつかんだことで助かったのなら、そうなるだろう。悪夢を見せるはずが結局良い夢に変えてしまった。殺されかけたことへの復讐は失敗に終わった。さて、そろそろ限界だ。さすがにあくびがこぼれてきた。
「ねえ、そろそろ離してくれない? 眠いんだけど」
早く自室に戻って寝たいと言えば、ミスラは手を離すどころか強く引っ張ってきた。オーエンが体勢を崩すと、まあまあ、となだめるように言いながら、オーエンを自身のベッドの中へと引きずり込む。
「ちょっと、ミスラ」
「ここで寝ればいいじゃないですか」
「嫌だよ。狭いし夢見悪くなるし、はなせって」
「はいはい、おやすみなさい。《アルシム》、《アルシム》」
「おっ、お、まえっ、おぼえ、て……」
安眠の魔法をかけられたことの他、存外優しく背中を叩かれたこと、眠気が限界に達していたことも相まって、オーエンの意識は急速に落ちていった。
気づけば光のささない場所にいた。
探せど何も見つからない。
呼べど応える声はない。
手を伸ばせどその手を掴むものはいない。
自分はひとりぼっちだ。
何もかも諦めかけたそのとき、ぐいと後ろから腕を引っ張られる。
『行きましょう』
声がする方へと振り返るが、逆光で姿がわからない。だがその手を引く強さも温度も知っているような気がした。そしてそのまま光が差す方へと歩き出し、視界は真白く染まっていき、目が覚めた。
「おはようございます」
「……おはよう」
起床後最初に視界に入ったのはミスラの顔だった。相変わらず端正で好みの顔であるが、今朝はややすっきりしているように見えた。熟睡できたからだろう。それはさておき、まずは尋ねたいことがあった。
「この手は何?」
オーエンはミスラに握られたままの手を彼へと突き出す。どういうつもりだと問いただせば、ミスラはやや困惑したような口ぶりで応える。
「あなたがぐずったからですよ」
「ぐずった?」
「大変でしたよ。急に目を覚ましたかと思えば泣いてぐずって、どこかに逃げ出そうとするから、手をつないでやったら急におとなしくなって」
「僕が?」
「はい、覚えてないんですか」
いくら寝ぼけていたとしても、泣いてぐずるなんてことはしない。もしや人格が入れ替わったかと思い至り、冷や汗が滲むが、ミスラは特に気にしたふうもない。
「寝ぼけてて覚えていないんでしょう」
オーエンの異変は寝ぼけていたからと片付けられ、特にそれ以上の言及はない。それならばいいかと、オーエンはこっそり安堵の息をついた。
「ところで、そろそろ離してもいいですか」
ミスラの言葉を受け、オーエンは無言で手をふりほどいた。そして身体を起こし、ベッドから腰を上げて、床に描かれた魔法陣のことを思い出す。効果も切れて、描いた痕も消えかかっているのをオーエンは足でかき消した。部屋を出ていこうとすると。
「ああ、そういえば」
「う、わ」
急に後ろから手を引っ張られた。体勢を崩しかけるが、なんとかその場にとどまる。オーエンは振り向いて、手を引っ張ったミスラを睨みつけるが、例によって彼は気にしていない。
「急に何」
「いえ、何の夢を見たんですか」
問われた瞬間、見た夢が頭の中を駆け巡る。光のささない暗闇。応じる存在のない空間にひとり。思わず叫び出したくなりそうになるのをぐっとこらえ、オーエンは鼻で笑ってみせる。
「何、心配でもしているの? 余計なお世話だよ」
「いえまったく」
あまりに早く、あっさり否定されて、それはそれで苛立った。じゃあなんなの、と刺々しい声音で聞き返せば、単純に気になるんですという回答が返ってくる。
「あれだけぐずって泣いて取り乱したんですから、よほど恐怖をおぼえるような夢だったんでしょう。どんなものか教えてくれませんか」
「教えるわけないだろ」
そう言い放って手を振りほどき、オーエンはミスラの部屋を後にした。苛立ちを隠さずに足音を立てて廊下を歩く。そして不意に立ち止まり、ミスラにつかまえられていた手を見つめ始める。
「……教えるわけないだろ」
暗闇の中にひとりぼっちでいた自分を導いた声は、光さす方へ連れて行ってくれた手は、ミスラのそれによく似ていたような気がした。
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