ようやく日が沈み、夜空に星が輝き始めた夏の夜のこと。暑さはわずかに和らいだが、風はなく、今夜も寝苦しいだろうと誰もがため息をついたことだろう。
私は家の縁側に腰を下ろして、ぱたぱたとうちわを動かしながら夜空を眺めていた。
薄ぼんやりとした月はなおも煌々と輝いて地上を照らしているが、星々も負けてはいない。彼ならそう主張するだろう。そして、月に負けじと青白く輝く星を見つけて、私の口元はゆるんだ。彼の言った通りだ。星もまた夜空を彩っているのだ。
今宵も星は美しい。けれど以前彼と見たあの星空には敵わないような気がした。目を閉じてもなおも鮮明に思い出せる星の降る夜。けれど年々薄れゆく夜の思い出。彼とのわずかな、それでも大切な思い出が遠ざかっていくのを確かに感じ、胸がつきりと痛む。
『共に星空を見たくなったら、俺を呼べ』
その言葉も、確かに残っているのに、どんな声で彼が言ってくれていたのか、思い出せなくなりつつある。
うちわを動かす手を止めて、私はひっそりと彼の名を呼ぶ。今も彼はどこかの世界で星を眺めているのだろうか。この世界で星を眺めている私のように。
彼は、アマツミカボシは今どこで何をしているだろうか。
戦いが終わり、八百万界に集った魂はあるべき場所へと戻ることとなった。英傑たちは皆それぞれにあるべき場所へと帰っていった。独神としての使命を終えた私も元の世界へと戻っていた。八百万界で何年も過ごしたはずなのだが、元の世界で進んでいた時間は一夜分だけだった。ほんの少し長く夢を見ていたくらいでしかなかった。大いに困惑を残しながら元の生活に戻ったが、その生活に慣れるのも意外と早かった。
八百万界で過ごした時間は夢でしかなかったのだろうか? そんな気さえしてくる。英傑たちと過ごした日々は時を重ねるごとに遠いものになっていく。どんな声だったか、顔だったかも思い出すのに時間がかかっていった。
すぐに思い出せるのは彼と見た星空。交わした言葉。けれどそのときにつないだ彼の手の感触はもう忘れてしまった。それでも。
『頭』
「……アマツミカボシ」
私は星空へ手を伸ばす。この星を彼は見ていないとわかっていてもなお。
「私は、もう一度」
せめて願いは届くのではないかと信じて。
「あなたと、星が見たいよ」
そのときだった。
「……やっと見つけたぞ、頭」
「……え」
誰かが私の手をつかんだ。視線をゆるゆると上げていき、私は息を呑んだ。私の目の前に星の神が、アマツミカボシがそこにいた。どうして、という問いに彼は不敵に笑ってみせる。
「言ったはずだ。共に星を見たいのなら、俺を呼べと。この俺が約束を違えるとでも?」
そうなのだが、彼は約束を守る神ではあるのだが、そんなことよりも。
「どうやって、なんで、だって、私もあなたも」
どうやってここまでこの世界までたどり着いたのだろう。そもそも、それぞれ魂があるべき場所に帰ったはずだ。定められた世界の境界を越えて、別の世界へ行くことなどなどできないはずなのでは。
「あるべき場所、か。フン、それを決めるのは世界でも定めでもない。俺の居場所を決めるのは俺自身だ。他の何かが勝手に定めたものに、俺が屈するはずがないだろう」
頭も同じだ。そう言ってアマツミカボシは私の顔を覗き込む。
「頭のあるべき場所は頭が決める。そうだろう? 今ここで決めるがいい」
アマツミカボシはつかんでいた手をはなし、改めて私に向けて手を差し伸べる。
「頭は、どこで、誰と生きていたいのかを、な」
「私、は……」
この世界は元々私が生きていた世界だ。家族もいるし友人もいる。居場所はある。多少の諍いはあれど常に平和で便利だ。何不自由なく過ごせるところだ。あるべき場所はここだ。そう思う。けれど。
私は、どこで、誰と生きていたいのか。
何度となく星空を眺めて、私は何を思っていたのか。誰を想っていたのか。
「……私は」
きっともうここへは帰れない。
でも、それでもいいと私は差し伸べられた手をつかむ。まっすぐに彼を見つめて告げる。
「あなたと、一緒に星空を見ていたい」
「……ククッ、そうか。それが頭の意思か」
満足そうに笑んでアマツミカボシは私の手を引く。そのまま私は彼に抱き寄せられて、さらに抱え上げられる。
「__後悔はないか」
最後の問いに私は迷いなくうなずいた。
「私は、あなたと生きていたいから」
「フッ、そうか、ならば行くぞ」
共に美しい星空を眺める世界へ。
そう告げたアマツミカボシに抱えられたまま、私は闇夜の中に身を投じた。
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