雨が降ったら迎えに行くよ 前編(ヤマ独)※転生学パロ

 降り出した雨はなかなか止まない。ならば迎えに行かなくては。雨のせいで歩みを止めて、ひとり佇むあの子のもとへ。憂鬱な顔をして帰る場所がないと自嘲するあの子のもとへ。傘を渡して手を引いて、あの子と私が帰る場所へ連れて来よう。
『雨が降ったら迎えに行くよ。君の分の傘も持ってさ。そしたらこうやって一緒に帰ろうね』
 約束してくれるのか、とあの子は躊躇いがちに尋ねる。
『もちろん』
 忘れないか、と確かめてくる。なんて心配性なんだろう。
『忘れないよ。もしかすると遅れてしまうかもしれないけれど、信じて待っていてよ』
 じゃあ、もし、とさらに問いかけられる。
 もしも、帰る場所がなくなったら、お前も約束も忘れてしまったら。
『もう、なんてことを言うの』
 よっぽど信じられないんだろうか。そこまで来ると失礼じゃないだろうか。
『忘れるわけないよ。むしろ、そんなことになったら、自分が迎えに行く、くらいの気概を持ってもいいんじゃない? なんてね、とにかく信じて待ってなさい。悲しませることはしないよ』
 わかった、とようやくあの子はうなずいてくれた。
 そこまで振り返って、ふと、首を傾げた。
 あの子って誰だっけ。
 約束って、なんだっけ。
 
「うわっ!」
 先生の驚いた声でぼんやりとしていた意識は突如明確になった。顔を上げて時刻を確認する。十一時五十分。まだ四時間目の授業中だ。どうやらいつのまにか居眠りをしてしまっていたらしい。
 前の方を見れば、先生はしゃがんで何かを拾おうとしているところだった。割れてしまった黄色のチョークが床に散らばっている。半分ほどの大きさになってしまったものから、粉々になって床を黄色く染めているものまで様々。先生はその中でまだ使えそうなものを拾い上げ、使えそうもないものはちりとりで集め始めた。
 その隙に私は板書をノートに書き写し始める。ノートは日付までは書いていたが、それ以降は一切書いていなかった。始まってすぐ寝てしまったらしい。今日の課題、和歌、作者、現代語訳などを急いで写し切ろうとするが、その前に先生は授業を再開してしまう。
「さて、じゃあ続きですよ。次の和歌を音読してもらいましょうか。先生と目が合わない、そう、窓際で今一生懸命に板書を書き写してる人!」
 ぎくりとして私は書く手を止め、おそるおそる顔を上げる。私じゃないと願いたい、が、クラスの皆と私を見てにっこりと笑う先生の視線は私に集まっている。どう考えても私である。
「眠気を覚ますつもりで、元気に音読してくださいね! はりきってどうぞ!」
 寝ていたのもばれていたらしい。あまりにも気まずすぎるが自業自得だ。ひとまず深呼吸をしてから、黒板に書かれた和歌を音読する。
 
 契りきな かたみに袖を しぼりつつ
 末の松山 波こさじとは
 
 音読を終えると先生がお上手です、と拍手をしてくれたが、なんだか嫌味のような気がしてならない。いや、寝てしまっていた自分が悪いのだが。
「この和歌は百人一首にも採用されてますからね、聞いたことがある人もいるんじゃないでしょうか。作者は清原元輔、清少納言のお父さんですね。というわけで、文法を確認しながら現代語訳に直してみましょう」
 黒板には最初の五文字が、契り、き、な、と区切られながら書かれていく。『契り』は動詞、『き』は助動詞、『な』は助詞という説明とともに、終止形にした形がさらに書き添えられていく。そのあたりでようやく書き写すのが追いついた。続けて私はノートに板書を写していく。
「終止形に直していくと、『契る』、『し』になります。『な』はそのままですよ。じゃあ、少し時間をあげるので、単語や助動詞の意味に注意しながら『契りきな』を訳してみてください」
 私は文法のテキストを開いて助動詞と助詞を確認していく。『し』は過去、『な』はどれだろう。詠嘆でいいか。和歌は大体詠嘆でいいと聞いた気もする。それから辞書で『契り』の意味を調べる。真っ先に目に入ってきた単語は、約束。
『約束』
 その言葉を目にした途端、どくんと心臓が音を立てた気がした。とっさに胸を押さえれば鼓動が激しくなっているのがわかった。呼吸も徐々にとうまくいかなくなっていく。やばい、これはなんだ、この感覚は。息を吐いてもうまく吸えない。次第に嫌な汗も出てくる。目を閉じてどうにか落ち着かせようとしていれば、どこからか声が聞こえてくる。
『忘れないよ』
『約束だよ』
『ごめんね。約束、破っちゃうね』
「はい、その通りです。約束したよね、という意味ですね。何を約束したかというと、下の句が、あれ、うわっ、ちょっと、大丈夫ですか!?」
 先生が慌てたように駆け寄ってきた。鼓動は早いまま。呼吸をするたびにひゅうと変に音が立つ。汗はノートに滴り落ちている。本当にまずい。経験したことない異常が起きている。私の様子を見て、クラスの皆がざわついている。
「立てますか? 保健室に行けそうですか?」
 私はうなずいてからゆっくり立ち上がる。皆が心配そうに見守る中、よろよろと歩いて、やっとのことで廊下へと出て。
『私のことは忘れていいよ。忘れて、とらわれないで、ごめんね、さようなら』
 私は意識を手放した。

『そんなこと言わないでくれ』
『忘れない、待っている、迎えに行く、だから』

 目を開けると白い天井、起き上がればベージュのカーテンが視界に入る。私は保健室のベッドに寝かされていたらしい。室内は時計の音が聞こえてくるくらいで、しんと静まり返っている。人の気配もなさそうだ。先生も不在なのだろうか。
 あれほど荒れていた呼吸も鼓動も今は落ち着いている。ただ汗で背中が濡れていて気持ちが悪い。いったいなんだったんだろう。
 今朝の体調は普通だったし、変なものを食べたわけではないし、何の前触れもなかったし。居眠りしたのだって不可解だ。ちゃんと睡眠はとっていたのに。今後もあんなことがあったらどうしよう。原因が不明では解決に至らないではないか。困ったなあ、とひとりごとをつぶやいていると。
「何が?」
「うえっ!?」
 カーテンに仕切られた隣から反応が返ってきて、思わず変な悲鳴をあげてしまった。まさか他に誰かいるとは思わなかったじゃないか。声からすると男子か。身を固くしていると、男子の方から再び声をかけてくる。
「何が困ったんだ?」
「えっ、ええと、その」
 ひとりごとを拾われて恥ずかしいやら戸惑うやらで返答がうまく出てこない。強いていうなら返答に困っている。それを察したのか、彼の方から、まあいいやと流される。
「具合が悪くなったのか? まあ、そうでもなければ運ばれてこないか」
「えーと、そう、ですね」
 廊下に出たところまでは覚えているが、そこから先の記憶が途切れている。おそらく倒れてしまったのだろう。先生が大騒ぎしただろうというのは想像に難くない。そして担架かなにかでここに運ばれたのだろう。クラスの皆も、保健室に至るまでに通ったクラスからも注目を集めたことだろう。しばらくちょっとした有名人かもしれない。保健室を出るのが気が重い。憂鬱な気分になっていると、隣の彼は大あくびをこぼしていた。
「せっかくゆっくり寝ていたのに目が覚めた。ずいぶんと大騒ぎだったからな」
「休んでたところごめんなさい……」
「いや、別に。ところで、なんで敬語なんだ?」
「いや、先輩かもしれないじゃないですか、あなた」
 先輩には敬語を使うというものだろう。逆になぜあなたは敬語じゃないんですか、と聞き返したくもなったが、三年生だからなのかもしれないと結論づけていたのだが。
「俺は一年生なんだが、同学年か?」
「えっ」
「どうした」
「私、二年生なんですけど……」
「なんだ、先輩だったか」
「ええと、そうなる……ですね?」
「敬語はいらないぞ。そっちの方が先輩なんだろう? そして俺のことは気軽にタケルくんと呼んでくれ」
「気軽すぎる……」
 ついつい頭を抱えてしまう。一応初対面だろう、私たち。ついでに言えば年の差もあるだろう、私たち。なんだろうこの距離感は。彼が人懐っこいのか、私が人見知りなのか。深く考えたところで何があるわけでもない。これ以上はやめておこう。ひとまず頭を抱えるのをやめると、突如ぎゅるるるると空腹を訴える音が部屋に響いた。私が反応できずにいると、タケルくんが感心したようにつぶやいた。
「いい音だな」
「聞かなかったことにするとか、そういう気遣いが欲しかったな!」
「指摘されない方がかえって気まずくなるだろう。気にするな。腹が鳴るのは健康な証拠だ」
「そんなフォローされても気まずいよ!」
 先ほどの異音、もといおなかを鳴らしたのは私。そういえば倒れる前は四時間目の後半、昼休みも間近のことだった。空腹なのは当然。でもあんな妙な鳴り方しなくてもいいじゃないか、人前なのに。再び頭を抱えていると、保健室の扉が開く音がした。保健室の先生が戻ってきたらしい。そして先生はカーテン越しに声をかけてくる。
「おーい、寝てるふたりともー? 起きてるー? そろそろ五時間目終わっちゃうんだけど大丈夫そー? まあタケルくんは大丈夫か。カーテン開けるよー」
「いや、俺はまだ寝る」
「タケルくんはそろそろ起きて授業に出なさい。んーと、こっちはどうかなー? カーテン開けるよー。あ、起きてた」
 顔を上げると先生がにこりと笑って手を振っている。顔色良くなったね、と言った後に、私の隣の方にあきれた顔を向けた。
「ほらほらタケルくんはさっさと教室に戻る。六時間目は出なよ」
 先生にならって私はタケルくんの方へと視線を向けた。ため息の後に、ぎいと軋む音がしてタケルくんがベッドから降りていた。視線に気づいたらしい彼はこちらへと振り向いた。そこで初めて私はタケルくんの顔を見た。
 一言で言えば美形、だ。ここ以外で会ったとしたら思わず避けていただろうと思うくらい。冷たさを感じるわけではないがどこか近寄り難くもある印象を受ける。少し前まで眠っていたからか表情はまだ気だるそうだ。
「それじゃ」
 そう言い残してタケルくんは手をふって保健室を後にした。口元にちょっと笑みものせて。うわあ、美形だ。眩しい。足取り軽く去っていったのをふたりで見送ったのちに、先生は首を傾げた。
「なんかえらくご機嫌だったなあ、タケルくん。君のおかげ?」
「えっ、私、何もしてないですよ。強いていうなら、絡まれたのはこっちですし……初対面なのに」
「あの子が? うわあ珍しい、誰かに絡むなんて、しかも初対面の相手に」
「珍しい?」
 思わず聞き返すと、そうなの、と先生はうなずいてみせる。
「彼、悪い子じゃないんだけど、ちょーっと変わってるところがあるんだよね。授業はサボるし、寝るし、でもやればできる子。雨の日にはぼーっとしてたり、晴れの日には日向ぼっこして丸くなったり、人当たりもそこまで悪くはないのに、人付き合いはなんか悪くてさ、懐かない猫みたいなの」
 先ほどまでのタケルくんとの会話を思い出す。懐かない猫、というのはあまり当てはまらない気がする。ぐいぐいというわけではないが、足元に近づいてきてこちらを見上げて鳴いている猫というか、何というか。どうにも表現しがたい。はっきりしているのは、先生が驚くくらい、普段の彼とは違ったのだろうということ。
「ご両親からもご兄弟からも可愛がられてて、何不自由ない生活を送ってるっていうんだけどね、何かあるのかなあ……って、うわだいぶ口すべらせた、やばいやばい」
 先生は慌てて口を閉じた。さすがに個人情報を出しすぎたと気づいたらしい。そしてこほんと咳払いをしてから、具合はどうかな、と改めて私の体調を確認してくる。
「今のところは大丈夫です。なんかすっきりした気も」
 しますし、と続けようとして、きゅるるるという音がお腹から響いた。ごまかしようなく、私の、お腹から、聞こえた。先生は呆気に取られた表情をしてから、あっはっはと手を叩いて笑った。
「ご、ごめん、そうだよね、お腹空いてるよね、さすがに、どうしよっか、お弁当持ってきてた?」
「いえ、食堂で食べようと思ってたので、何も」
「そっか、じゃあ、私が買ったパンあげるよ。昼休みにふたつ買ったんだけどね、なんか食べる気にならなくてさ。おいでおいで」
 先生の手招きに応じて私はベッドから降りて、入り口の近くの椅子に腰かけた。先生から渡されたのはコロッケパン。購買部でも意外と人気で売り切れていることの多いパンだ。
「ありがとうございます。いただきます」
「うん、ゆっくり食べてね、あれ……」
 先生が窓の方へと視線を向けた。つられて私もそちらの方を見る。晴れ間もあった午前中から一転していつのまにか曇り空になっていた。そして窓を打つ雨音が聞こえてくる。
「雨、降ってきたね。今日は降らない予定のはずだったんだけどなあ」
 最近は天気も変わりやすいね、とぼやく先生に同意しつつ、私はコロッケをかじる。さくさく感も残ったコロッケが入っているのがこのパンの人気の理由らしい。空腹も相まっておいしさが全身に染み渡るかのように感じた。感動しながら食べていると、あ、言い忘れてたと先生がこちらを向いた。
「それ食べ終わったら帰っていいからね」
「え? 早退ってことですか?」
「そうそう。さすがに結構派手に倒れた後だからねえ、君の担任がものすごく心配しててさ、目覚め次第、お家に帰らせようってことでね。君のお家にそう連絡したら、いの一番に迎えに行くって言ってたって」
「心配かけちゃってますね……」
「そうだよ。だから今日は家に帰ってもゆっくり休みなよ。というわけで、お家の人に連絡してくるよ。君は食べ終わってから、帰る準備してね」
「わかりました」
 私の返事を聞いて、先生は保健室を後にした。パンは残り三分の一ほど。さすがに食べ終わる前には戻ってくるだろう。それにしても。
「タケルくんか……」
 人懐っこい、というのか、何というのか、妙な距離感の子だったなあ。あとなんかめちゃくちゃ美形だったなあ。あれだけの美形だったら相当話題になっているはずなのに、何で今まで彼のことを聞いたことがなかったんだろう。まあ、でも、今後顔を合わせることはないんじゃないかな。学年が違えば一緒になることはなかなかないし、私は部活に入っていないので、さらに出会う機会は少ないから。そう結論づけて、私はコロッケパンの袋をたたんだ。
 しかし思いの外再会は早かった。それは倒れた日から一週間後の放課後のことだった。
 この日は委員会活動。教室環境の確認をチェックする日だった。天気は雨、とチェックシートに記入し、もうひとりの委員に声をかける。
「じゃあ私、一年生の教室確認するね」
「じゃあ俺は二年行ってくるわ。三年はどうする?」
「そうだなあ、終わったら私はA組から見ていくから、E組からお願いね」
「了解〜」
 打ち合わせを終えて私は一年生の教室へと向かう。一年生の教室は四階建ての校舎の四階にある。なお二年生は三階、三年生は一階、職員室は二階という構造になっている。去年は階段をのぼるの大変だったなあ、と思い出にひたりつつ、一年A組の教室へと向かった。生徒はほとんどおらず、皆部活に向かったり帰宅したりしているようだ。一声かけて教室に入り、掲示物、掃除用具などを確認をしてチェックシートに記入をしていく。うん、A組はばっちりだ。
 そして隣のB組に入ろうとして、あることに気づき、咄嗟に私は扉に身を隠した。身を隠しつつも、そっと教室内の様子をうかがえば、やはり男子と女子が向かい合って窓際に立っている。直感が告げている。これは告白、あるいは修羅場。むやみに立ち入っては行けないと。そうっとC組の方へ移動しようとすると、女子の泣きそうな声が耳に入ってきた。
「どうしてなの、タケルくん」
「どうしてと言われてもな……」
 聞き覚えのある名前と声に反応してつい動きを止めてしまう。いや止めたらまずい。慌てて扉に戻りこっそりと私は教室内をうかがう。泣きそうな表情で相手を見上げる女子の横顔、そしてうんざりした面持ちでため息をつく男子。そんな表情でもなお美形。間違いなくタケルくんだった。
「ねえ、付き合ってなんて言ってるわけじゃないんだよ。一緒に帰ろうって話。それくらい、いいじゃない。噂されるのが気になるの? それとも私のことが嫌い?」
「噂が気になるとか、嫌いだとか、そんなことは言ってない。言ったのは一緒に帰らないってことだ」
「だから、どうしてなの? 理由がわからないんじゃ、どうしようもないよ」
「理由はあるにはあるんだが……言う必要があるのか?」
 タケルくんの冷たい一言に女子はびくりと身体を震わせた。つられてこちらまで震えそうなくらい、彼の声も言葉も冷えている。保健室で気軽すぎる対応をしてきた子と同一人物とは思えないほどだ。
「毎日毎日よく諦めないな、なんで俺にこだわるんだ」
「そんなの……」
 答えはひとつしかないと聞き耳を立てている私ですらわかる。けれど彼女は言い淀んでいる。色良い返事がもらえるとも思えない態度を取られれば、はっきりとは言葉にしたくないだろう。言葉にしたらそれこそ切って捨てられるに違いない。タケルくんは女子から視線を窓へと向けた。雨は静かに降り続けている。
「雨がひどくなる前に帰った方がいいんじゃないか」
 気遣うようでいて明確な拒絶を含ませた言葉を受けて、女子はわっと泣き出し、廊下に向かって走ってくる。こちら側にやって来ることに気づき、私は慌ててA組の教室へ駆け込んだ。女子はA組を通り過ぎ、そのまま階段へと降りていった。
 なんというか、見てはいけないものを見たような気がする。男女の修羅場もそうだが、何よりタケルくんの印象が大きく変わってしまった。あれが先生の言っていたタケルくんなのだろうか。保健室での彼はなんだったんだろうか。
 そこで私は、手にしていたチェックシートの存在を思い出し、ついでに委員会活動中だったことも思い出した。しまった、早くチェックし終えなきゃ。私は廊下を出て、B組の教室の様子をうかがう。タケルくんはまだいるだろうか。できればあまり顔を合わせたくないと願っていたが、やはりまだ彼は教室に残っていた。今度は窓に向かって机に座っている。やっぱりいるのか。いるだろうな。少し待ってみたが、タケルくんはどうにも帰る様子もないようだ。待っていても仕方がない、こうなったらささっと終わらせてしまおう。そう決意して、深呼吸をし、教室に足を踏み入れる。
「しっ、つれいします! 委員会活動で参りました!」
 変な緊張のせいで第一声が裏返った。恥ずかしい。埋まりたい。いや、もう、気にしている場合ではない。振り返るタケルくんに構わず、私はチェックシートを片手に確認をしていく。確認がいつもより雑になっている気もするが仕方ない仕方ない。タケルくんからの視線がめちゃくちゃ気になるが、気にしない気にしない。掲示物オッケー、用具オッケー、はい多分全部オッケー、はい次! 極力彼と目を合わせないように教室の出入り口へと向かう。
「失礼しました!」
「待ってくれ」
「わっ!?」
 振り返れば目の前にはタケルくん。いつのまにか距離を詰めてきていたらしい。思わず後退りすれば即座に手を捕まえられ、チェックシートとボールペンが廊下に転がった。驚きと困惑で身体が動かず、逃げられない。タケルくんの表情は真剣そのもの。無言でこちらをじっと見つめてくる美形の圧力に耐えられず、私は視線をそらした。それでも何も言わないタケルくん。無言だからこそ余計怖くなった。いったいどういう状況なんだろう、これ、とりあえず何とか言ってほしい、解放して欲しい、などとこの場から逃げ出したい気持ちでいると、タケルくんが沈黙を破った。
「約束」
「え?」
 私は顔を上げた。約束、ともう一度繰り返し、彼は不安げな表情で問いかけてくる。
「……何も思い出さないのか?」
「な、何が? いったい何の話?」
 本当にわからなくてそう言うと、タケルくんは目を丸くし、唇を噛んでうつむいた。掴まれていた手は解放され、タケルくんは私から距離を取った。その傷ついたような表情はどうしてなんだろう。私の返答が彼をそうさせたのはわかる。けれど約束? 思い出すも何も、初めて会った保健室では約束はしていなかったはずだ。それとも、以前に会ったことがあるのだろうか。
「ね、ねえ、私、昔、私とタケルくん、会ったことがあるの?」
「それは……」
 それすらも、お前は、とタケルくんが消え入るような声でつぶやく。ますます彼を傷つけてしまったらしい。何を言っても深く傷つけてしまいそうで、私も押し黙ってうつむくしかなくなった。どうしたらいいんだろうと悩んでいると、階段を駆け上がってくる足音が聞こえてくる。その足音はこちらの教室に向かってきた。おーい! という大きな声とともに、同じ委員の男子がやって来た。
「まだ終わらないのかーって、うわっ! なんか話し中? いやいや委員会活動どうしたよ?」
「う、あ、ごめん、ちょ、ちょっとね」
「活動終わらせてから話しろよな。長引きそうなら今日のところは俺が」
「話は終わった」
 タケルくんはそう言ってかばんを取りに棚の方へ行った。そしてかばんを手にして、私の方にちらりと視線を寄越した。
「……もう、会うこともないだろうさ」
 そんな言葉を残して、タケルくんは教室を後にした。どこか名残惜しげに見えたのは気のせいだろうか。
 もう会うこともない。そう、彼とは学年も違うのだから、偶然がない限りは、会うことなどもうなくなるだろう。だが、彼の表情が妙にひっかかって胸が痛んだ。何かを忘れている、思い出せていないことが彼を傷つけた。けれど考えても考えても、どうしたって、彼のことはこれまでの記憶をたどっても見つかってこないのだ。
 ……本当に?
『あの子のことは忘れよう』
『あの子と自分のためにも』
『帰る場所があるならあの子は大丈夫』
『少しだけ、胸が痛むけれど、大丈夫、だから、私は』
 声が聞こえる。ぐらりと視界が揺れる。頭がひどく痛い。目頭が熱い。胸が痛い。次第に力が入らなくなり、私の身体はぐらりとその場に崩れ落ちた。
「お、おい、どうした!?」
 焦る男子の声が聞こえて、いつかのように私はまた意識を手放した。

 君をおきて あだし心を 我が持たば
 末の松山 波も越えなむ

 あなたをさしおいて私が浮気心を持つのなら、どんな波も越えないという末の松山を波が越えてしまうでしょう。

「まったく意味がわからん。また教えてくれないか、我が弟」
 ひとつ上の兄が助けを求めてきた。昨日から続く兄への和歌の学習のアドバイス。教科書で取り扱っている題材なら、市販の解説テキストがあるのでそれを頼ればいい。そう返したのだが、今回の題材は先生の趣味、いや、生徒たちに和歌に親しんでほしいという強い思いから、教科書には載っていないものを選んで授業をしているらしい。一応百人一首から採っているが、時代背景や下地になっている他の和歌なども含めると、おさえなければならない知識等は膨大にある。多少知識があるとしても教える方も大変だ。生徒には明らかに負担がかかっているのだが、先生は実に楽しそうなのだそうで。それはそれとして、兄よ。
「意味がわからないだけじゃ、何を教えたらいいかわからないんだが」
「む、それはそうだな。何というか……この和歌の現代語訳を読んでも、何が言いたいのか訳がわからない。困っている。手を貸してくれないか」
 そう頼まれて、俺は図書館で借りてきた和歌の本を手に取って和歌を探す。この本は和歌の意味だけでなく、作者や時代背景、関連した和歌などの解説もついている本である。それを読みつつ、さてどう噛み砕いて説明するべきかと悩みつつ、少しずつ確認していく。
「末の松山は前に教えた通りだ」
「うむ、波は末の松山を越えられないと信じられていたのだったな」
 当時、末の松山というのはどんな波も越えないと言われており、波が末の松山を越すということは、ありえないことを示すらしい。そのため末の松山と波は和歌の世界では絶対の愛を示したり誓ったりする際に使われるのだとか。
「だからこの和歌は、自分が浮気心を持つことはありえないことだと言いたいわけだ」
「むむ……なるほど、それでもうひとつの和歌は、ええと……」
 少々混乱し出した兄に代わって、俺は和歌を音読する。
 
 契りきな かたみに袖を しぼりつつ
 末の松山 波こさじとは 

 約束しましたね。お互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越すことはないように、ふたりの仲が変わることはないと。

 ふたりの仲は絶対だと約束したのに、あなたは心変わりしたんですね、と約束を破った相手を責める和歌なのである。解説曰く、心変わりした女性に対して宛てた和歌なのだとか。ここまでたどり着いて、兄は神妙な面持ちでこちらを見る。
「弟よ」
「なんだ」
「これらの和歌、我々生徒にはものすごく難しいと思うのだが」
「俺もそう思う」
「そうだろう。あまりに難しいだろう。それゆえに他のクラスでは授業中に倒れた生徒がいたと聞く」
 それは彼女のことだろう、とすぐに察しがついた。先日、保健室に運ばれてきたひとつ上の女子生徒。あまりにも大騒ぎで睡眠を邪魔され、腹が立ち、カーテンの隙間から覗いてしまったのは、たまたまだったのか、めぐりあわせというものなのか。
『主……!』
 彼女を一目見て、ずっと探し続けていたひとだとわかった。大切な約束を交わしたひとだと。
 だが彼女は何も覚えていなかった。何もかも、本当に忘れてしまっていたのだ。そして思い出す気配もない。そんな事実に打ちのめされた。自分でも驚くほど心が軋んで胸が痛い。もう会うこともないだろうと彼女に向けたはずの言葉は、自分の心をざくざくと傷をつけ、さらにその傷を抉る。本当は会いたくてたまらないのに、何も思い出さない彼女にまた自分は傷つくだろう。悪循環だ。ため息をついていると、兄が心配そうにこちらを見つめていた。
「どうした、弟。そんな悲しい顔をして」
「何もない。それはそれとして、なんとなくわかったのか? 教えたところは」
「うむ。どんなに誓ったところで心変わりはするもの、絶対に守られる約束などないということがわかったぞ」
「それは……どうなんだろうな」
 違うだろう、とはいえない。絶対に守られる約束などないと、身をもって体感してしまったがために否定もできない。
 かつて彼女は涙ながらに宣言した。
『ごめんね、約束、破っちゃうね』
『私のことは忘れて、約束も、私も忘れるから、だから今度こそ君は自由になって、本当の意味で』
 そんなこと言わないでくれ、というこちらの言葉を、聞きたくないと首を振って背を向けたのを覚えている。そして、離れたくなくて忘れたくなくて、その背を追いかけたのも覚えている。覚えているのは自分だけ。彼女は宣言通り全てを忘れたのだ。そう思い至り、じくじくと傷が再び疼き始める。うつむいていれば兄が俺の肩を叩いた。
「弟、顔色が悪いぞ」
「別に大したことない」
「いや、本当に顔色が悪い。今日は早く休んだらどうだ。もともとお前は病気がちの体の弱い子だった。今も保健室にいることが多いと聞いている」
 大真面目に兄は語る。今はもうすっかり元気で、保健室にいたがるのはサボって寝ているからだとは言えない。兄の耳にも評判は入っているだろうに、聞き入れないのだ。なんというか、甘やかされているのだろうか。
「付き合わせて悪かった。あとは自力で何とかする。ゆえに早く休むといい」
「……そうする」
 優しい兄だ。今世の家族からは大切にされているとたびたび実感する。満たされていると思う。なのに、それでも足りない。何かが欠けている。欲しいものがある。叶わないものがある。
 主。
 もう一度、俺は、お前と歩いてみたかっただけなのに。
 それすら、そんなことが。
 
「そん、な……」
 母は思わず口を覆った。私も信じられないという顔でそれを見た。本当なんですか、という確認に、病院の先生は静かにうなずく。
「本当です。間違いありません。受け入れてください」
「ああ、そんな……なんてこと! うちの子が、うちの子が!」
 映し出されるレントゲン写真、血液検査等の結果の数値。さまざまに受けた検査結果が示したものは。母は診察室に響き渡る声で叫んだ。
「近年稀に見る、超健康優良児だなんてっ!」
「あの、お気持ちはわかりますが、お静かに願います」
「あらやだすみません」
「いやあ、こんなに健康的な写真も数値もなかなかないですよ。すごいですね、あっはっは」
 先生は朗らかに笑っている。何ともないならいいといえばいいのだが、逆に疑問が残る。じゃあ、倒れた理由はどこにあるのだろう?
 私が意識を失うこと二度。さすがに母の心配が爆発し、評判の良い病院に行って、ありとあらゆる検査を受けた。私としても何度も倒れるわけにもいかない。原因がわかるならそれがいい。自らもすすんで検査を受けた。そして今日、結果を聞く日だったのだが、まったく身体に問題はないのだという。
「貧血というわけでもありませんし、脳がなにかあるというわけでもないんです。となると、倒れた理由として考えられるのは、あとは精神的なものでしょうか」
「精神的なもの、ですか?」
「ええ、極度のストレスであるとか、緊張だとか、トラウマ、そういったものはありませんか?」
「ストレス、緊張、トラウマ……」
 そのキーワードを繰り返し、倒れたときのことを振り返る。意識を失う引き金になったことがあったのではないだろうか。一回目。和歌の授業を受けていたとき。二回目。タケルくんが去ってしまった後。共通するものは何だろう。
「あら、心当たりあるの?」
「んー、考え中……」
「あらあら……」
「まあ、ここから先は専門外ですので、何も言えませんが、心というものは身体にも大きな影響を与えますからね、それが解決すれば状態は変わるかもしれませんよ」
 そんな先生の言葉を受け、私は母と病院を後にした。母の運転する車に揺られながら、引き金、共通点を探してみるが、ピンと来るものが見つからない。
「んーと、んーと……」
「あまり考えすぎないほうがいいんじゃない? また倒れちゃったらお母さん心配だわ」
「でもそこに原因があったら、原因がわかれば対処できるかもしれないし……」
「そうかもしれないけど……」
「うーん、うーん……」
 考えてもまるで思いつかない。それどころか頭がぼんやりとしてくる始末。母はそんな私に呆れた様子で口を挟む。
「あと一時間半そうしてるつもり? 朝早かったんだし、寝てもいいのよ? 寝不足で考えてもいいものは得られないわよ?」
「んー……」
 だんだんととろりと意識が、視界が白く溶けていく。母の声も遠ざかっていって、自然とまぶたが落ちていった。そしてすっと意識が落ちる。ゆめうつつ。ゆりかごに揺られるような心地よさに身を委ねていると、どこかから雨音が聞こえてきた。静かに降り続ける雨の音に混じって、やがて聞こえてきたのは誰の声だろう。
『ごめんね、約束、破っちゃうね』
 泣くまいと必死になっているのが声だけでも伝わってくる。ぼんやりと正面に見えるのは人影だ。だんだんと近づいてくるのに焦点が合っていないかのようになおもぼんやりとして、はっきりとしない。手のようなものが伸びてきているのを避けて、誰かはなおも言い募る。
『私のことは忘れて、約束も、私も忘れるから、だから今度こそ君は自由になって、本当の意味で』
 聞こえてきたのはまた別の誰かの声。
『そんなこと言わないでくれ』
 その言葉から逃げるように首を振って、背を向けて、逃げて逃げて、飛び込んで、視界は黒に染まる。色も音もない世界にひとりきりになって、誰かはこらえきれなくなったとばかりに泣き叫んだ。
『私だって、本当は……!』
 その後に続く言葉はなんだろう。ひとり泣きじゃくる声はだんだんと遠ざかっていき、視界は白く染まっていく。あたりが線によって形取られ、色がつく。ゆっくりとまばたきをすれば前方に運転する母の姿が目に入った。窓には見慣れた街並みが映っている。きょろきょろとする私に気づいて母が声をかけてきた。
「あら起きた?」
「えっ……私寝てた?」
「寝てたわよ? ちょっとうなされてたけど。あ、あと五分くらいで着くから、どうせなら起きててね」
「え、ええ……?」
 そんなに寝ていた実感はないのだが、そう言われてしまえば起きているしかない。それにしてもさっきの夢は本当に何だったのだろう。話をする誰かと誰か。声はどこかで聞いたことがあるような気もするが、気のせいだろうか。目をこすると目元に触れた指がわずかに湿っていた。
 外の景色を眺めているうちに、私は何の夢を見ていたのか、それどころか夢を見ていたことすら記憶から抜け落ちていった。
 そうこうしているうちに私たちは家に到着した。ゆっくり休みなさいという母の言葉を受けつつ、自室に戻る。そして私は机の上にノートを広げてペンを手に取る。現状をまとめるためだ。
 まずは困っていることは何か。急に意識を失い、倒れてしまうこと。これをどうにか解決したい。根本的に解決できれば一番いいが、せめて倒れる引き金になることだけでも特定しておけば、倒れる状況を避けることもできるのではないか。手がかりとなるのは、倒れた前後のこと。まずは最初に倒れたときのことを振り返ってみよう。
「確かあれは古典の授業……和歌の授業を受けてたとき……」
 居眠りから目を覚まして慌ててノートを書き写していたっけ。そして、そう、和歌の現代語訳をする際、辞書に載っていた約束という言葉を目にして、急に身体に異変が起きた。これはキーワードになりそうだ。
 次に意識を失ったのは放課後のこと。タケルくんと会った後のこと。どんなことを言っていただろうかと振り返る。彼は確か、不安げな表情で、名残惜しげな表情で。
『約束』
『……何も思い出さないのか?』
『もう、会うこともないだろうさ』
 そのときのタケルくんの表情を思い出すだけで胸が痛くなってくる。彼が何を求めていたのかはわからない。ただ私が彼を深く傷つけ、悲しませてしまったことは確かだ。会った回数はわずか二回。それほど親しくなったわけではないが、それでもあんな表情をさせてしまって、お別れになったことは本意ではないし、悔いが残る。できることなら、後味が悪いままにしておきたくはない。できないかもしれないけれど、といったんペンを置き、ぐちゃぐちゃと走り書きでまとめたノートを見直す。特にこれといったものはないような気もするけれど。
「うん……?」
 ノートを見直して気づく。一度目のときにも、二度目のときにも出てきた言葉がある。それは辞書で目にした言葉、タケルくんがつぶやいた言葉。
 約束。
 その言葉を丸で囲んだ直後、一瞬めまいがしたが、目をつぶって深呼吸をし、なんとか踏みとどまる。今回は意識も飛ばずに済んだ。もしかすると、約束という言葉に身体が何かしらの反応を示したのかもしれない。
「約束が何か関係あるのかな……」
 けれどその先がつかめない。約束というものがどうして私に関係があるのか。誰かと約束をしたわけでもないのに。ひとりじゃここまでしか進められない。とりあえず約束というものを避けたほうがよさそうだが、この先ずっと避けるというわけにもいかない。なぜ約束が身体の不調の原因になっているのだろう。誰かの手を借りなければならないだろうか。とはいえ誰に助けてもらうべきか。信頼できる人。知識や心得がある人。助言ができる人。いや、それよりも、明らかに、何かを知っていそうな人。
「うーん……」
 候補を見つけたような気もする。けれど助けてもらうとして、その先のことがどう転ぶかがわからない。また表情を曇らせてしまうのも本意ではない。けれど、このままでは情報もなく、手立てもなく、何もわからないまま苦しむだけじゃないだろうか。ならばやるしかない。
「……会いに行って、聞いてみようか」
 日は変わって、月曜日の昼休み。天気は快晴。雲ひとつない空が広がるよき日。チャイムが鳴ると同時に私は教室を出た。
 彼は確かB組だったはず、と思いながら階段をのぼり、四階の廊下を歩く。見知らぬ上級生が歩いていることに気づき、戸惑う様子を見せる子や、しげしげと物珍しそうに見てくる子、緊張した面持ちで道を空ける子など反応は様々だ。
 そんな中をひとり歩く私はすさまじく緊張していた。だって他学年の廊下を歩くことなんか慣れていない。委員会活動で多少歩くことはあるが、人が少ないときだ。昼休みのような、にぎやかで人がたくさんいるときに歩いたことはない。ひそひそと友だちとささやきながらこちらに視線を向けてくる子もいて、とんでもなく居心地が悪い。だが足を止めるわけにはいかない。顔を上げてどこか遠くを見て、誰とも目があわないようにして歩いていれば、一年B組の教室にたどり着いた。昼休み直後のにぎわいに二の足を踏みそうになったが、さっさと終わらせた方が気まずくない、と言い聞かせ、私は扉を叩いて教室へと足を踏み入れた。教室にいた一年生たちの視線が集中するが、負けるものか。
「しっ、ちゅれいします!」
 噛んだが気にしない気にしない! 困惑した様子の子たちの中から目当ての人物を見つけ、こっそり安堵の息をつく。そして彼の元へと一直線に向かい、声をかけた。
「タケルくん」
 窓から青空を眺めていたらしい彼は、めんどくさそうに振り向き、そのまま目を丸くして固まった。驚いているらしい。まあ、それもそうか、もう会うこともない、なんて言った後のこれだ。
「うん、今から屋上に行こうか。大事な話があるの」
 そう言われてもぽかんとしたままのタケルくん。周りでざわつく彼のクラスメイトたち。いったいなんだ、なにをしたんだ、ついに、やっぱり、女子だぞ、などという言葉が聞こえてくる。さっさと逃げ出してしまいたいのだが、タケルくんは動こうとしない。視線やひそひそ、ざわざわに耐えきれず、私は彼の手を強引につかみ、教室から廊下へと連れ出した。

 屋上は晴れ間が差して冬の割には暖かい。しかし制服だけではやや寒い。そんな中、私はタケルくんの手を引いてなるべく端の方へと連れていく。屋上には昼食を取ったり、話をしたりとのんびり過ごしている生徒たちがちらほら。私たちもそんな感じでのんびり話したいところだけど、どうなるだろうか。そしてどう話を切り出したらいいのだろう。
 それでもなんとか今日、タケルくんに聞いておきたい。私とその昔会ったことがあるのかどうか、約束とは何か。こういったあたりは私の不調に深く関わっているような気がする。とはいえ、うまくやらないと彼の表情がまた曇ってしまう気もする。話の持っていき方もなかなかに難しい。それでも聞かなくては、これも自分のためだから、と言い聞かせ、自らを鼓舞する。よし。私はタケルくんの方へ振り返った。すると彼はまだ困惑した表情のままだった。その視線の先には彼の手をつかんでいる私の手。
「……あ、ごめん、手、つかんだままだったね」
 慌ててはなしてやると、タケルくんは名残惜しげに離れた手を見つめていた。じゃあどうしたらよかったんだろうと思いつつ、とりあえず話を切り出すことにする。
「あのね、タケルくん。君に聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 私の言葉でタケルくんは身構えて押し黙ってしまう。表情も固くなる。それでもしばらく待ってみると、問うことを促すように彼は視線を動かした。それを受けて私は尋ねてみる。
「ええと、あのさ、私とタケルくんって、昔どこかで会ったことがある?」
 その問いにタケルくんは顔をしかめる。残念そうに、期待外れだと言わんばかりに。そしてため息まじりに彼はつぶやいた。
「思い出したわけじゃないんだな」
「うん……って、そう言うってことは、やっぱり会ったことがあるんだ? 私たち」
「……ああ」
 観念したようにタケルくんは肯定する。
「じゃあ、そのときに何か約束をしたりとかした……?」
「そう、だな」
 約束についてもタケルくんは肯定した。どうやらタケルくんと私は昔会ったことがあって、何かしらの約束を交わしたことがある、らしい。けれど私にはまるで覚えがない。自分の頭から記憶を引き出そうとしてみるが見つからない。
「うーん、それっていつぐらいのこと?」
「すごく、だいぶ、かなり昔の話だな」
「ええと……幼稚園とか保育園とか、そのあたり?」
「それよりも前だ」
「赤ちゃんのときとか……?」
「それよりも前だと言ったら?」
「ええ? どういうこと?」
 赤ちゃんよりも前といったら生まれていないことになる。それでお互い会ったことがあって、約束をしたことがあるというのはおかしくないだろうか。そう指摘すればタケルくんはあっさりうなずいた。
「おかしいな」
「おかしいよね? あの、もしかしてからかってる? そんなに話したくない?」
「俺はいたって真面目だが」
「そんなこと言ったっておかしいものはおかしいよ」
「そうだな。おかしいな」
 笑みもせず、大真面目な表情のままタケルくんは空を見上げた。
「逆に、なんで俺は覚えているんだろうな。お前のことも約束のことも、律儀に」
 そう言ってタケルくんはひとりたそがれはじめた。いやいや待ってほしい。
「待って待って、話を終わりにしないで。ちゃんと約束について話してよ」
「そうは言ってもな、これ以上話しても何も得られないんじゃないか?」
「そんなことないよ。ちゃんと話してくれたら私だって」
「さっきも言ったが、俺はいたって真面目に話したぞ」
 こちらの言葉を遮ってタケルくんは言う。確かに彼の表情は真剣そのもの。からかう様子ではない。
「おかしなことだとお前は言ったが、それが事実なんだ」
「その……生まれるより前に、君と私が約束をしたってことが?」
 そうだ、とタケルくんはうなずく。生まれる前に約束を交わすだなんて、そんなファンタジーみたいなことがあるのだろうか。にわかには信じがたい。あまりに現実離れした話だ。そんな私を見て、タケルくんは言葉を続ける。
「信じられないだろう? なら、話しても無駄なんじゃないか?」
「それは……」
「それに、これ以上この話を続けるのは、俺が嫌なんだ。これ以上は……苦しくなる」
「え?」
 タケルくんの表情は苦いものへと変わっていた。太陽は雲に覆われて、屋上に降り注いでいた日差しは遮られた。
「お前は何も思い出さない。話したところで信じてくれない。話をすればするほど、期待からは外れていく。嫌でも現実を突きつけられるんだ」
 ひとりぼっちだ、と自嘲するかのように彼はつぶやいた。
「約束は、お前にとっては忘れてしまうくらいのものだったかもしれない。でも、俺にとっては何より大事なものなんだ、今でもずっと。だから、これ以上は話したくない」
「それは、そんなことは、違うよ……」
 口をついて出たのはそんな言葉だった。何が違うのだろう。けれど出てきたのは否定の言葉。同時に私の頭の中で誰かが訴えている。叫んでいる。違うのだと、君にそんな表情をさせたいわけじゃないのだと。
「私は、君に苦しい思いをしてほしいわけじゃない。そんな悲しい顔をしないでほしくて」
 言葉は無意識のまま紡がれる。視界は揺らいで焦点がずれてぼやける。目の前にいるのがタケルくんかどうかもわからなくなって、意識は遠ざかる。ぼやけた人影に向かって言うのは私なのかかどうかすらわからなくなる。雨なんて降っていないはずなのに、どこからか雨音が再び響いてくる。そして誰かの咎めるような声も。
『もう、そんな表情じゃ、せっかくの綺麗な顔が台無しだよ』
『そうか? 憂いがある方が魅力的だと言う奴も多いが』
『少なくとも私の趣味じゃないな、そういうの。君は笑った方が素敵だと思うよ』
『素敵……?』
『そうそう。にいっと笑ってみてよ、試しにさ。ねえ、だからそんな顔しないで』
 ぼやけたままの人影へと私は手を伸ばす。触れたそれの輪郭をなぞる。まだ焦点は合わない。
「先輩?」
 彼に伝えなくては。言わなくては。何かに突き動かされるままに私は言葉を発する。そんな顔をするのはやめて。私は君に笑っていてほしいだけ。幸せになってほしいだけだったのに。だから。
「そんな顔をしないで……ヤマト」
「……主?」
「え?」
 ぼやけていた視界は突如クリアになる。どこか遠くへ飛んでいたような意識は自分のもとに帰ってきていた。焦点は定まり、目の前には驚いた表情のタケルくん。聞こえていた雨音はすっかり止んでいた。そもそも雨なんて降っていなかったけれど。雲が通り過ぎ、太陽が再び姿を現して光が差した。そんなことより私は今何を、と戸惑っているうちに、突然腕を強く掴まれる。
「いっ……」
「思い出したのか、主」
「え?」
 私の腕を掴んでいたのはタケルくんだ。その表情は真剣そのもの。私の方へ顔を近づけてきて矢継ぎ早に問う。
「今、呼んだな? ヤマトって。なあ、思い出したのか? 他にも思い出せそうか? どうなんだ? 主」
「え、えっと、あの、タケルくん、ちょっと待って、はなして、痛い」
 腕をぎりりと絞められる。彼が必死なのが伝わってくる。だが痛いものは痛い。私の訴えを聞き、タケルくんは腕をはなしてくれた。痛みが残る腕をさすっていれば、すまない、という謝罪の声が聞こえた。
「つい……悪かった」
「う、ん……」
「それで、何か思い出してくれたのか?」
「え? ええと……」
 先ほどのことを思い出す。私は何を言っていただろう。何かを言ってはいたけれど、意識も視界もぼんやりしていて、自分がどんなことを言っていたのかはわからない。
「さっきまで頭も目の前もぼんやりしてて、何を言ってたのかよくわからないんだけど……」
「そう、なのか……」
「でも」
 またしてもタケルくんは悲しげな表情をしてうつむいた。そんな彼の表情を見るたびに胸が苦しくなる。彼に伝えないと、言ってあげないと、という思いに突き動かされたことは確かに覚えている。
「タケルくんにそういう表情をしてほしくない。それは確かだよ。私はそう思っているよ」
「……そうか」
 笑えばいいのか、安堵すればいいのか、残念がればいいのか。タケルくんはなんとも複雑な表情だ。どう反応すればいいのかわからないといった困惑ぶりが顔に出ている。期待をしていた回答ではなかったのだろう。それでも全てが期待を外したものではなかったのではないかとは思う。ああ、そういえば。先ほど気になったことを私は尋ねてみる。
「ねえ、主ってどういうことなの?」
 彼は私をそう呼んだ。彼と私の関係は先輩と後輩だ。主と呼ぶ前は先輩と呼んでいたと記憶している。急にどうしてそう呼んだのか、なぜ私が主なのか、一体どういうわけなのだろう。
「それは……」
 タケルくんは逡巡した様子を見せたけれど、やがてこちらをまっすぐ見つめ、深呼吸をして、告げた。
「お前が、俺の主だったからだ」
「……え?」
 誰が? 私が? だった? わけがわからないことがさらに増える。
「私が?」
「そうだ」
「え、私が?」
「そうだ」
「人違い……とかは?」
「ありえないな」
「ありえないの……?」
「俺にはわかる。お前が主だ。間違いない。俺が後を追いかけたのも、約束を交わしたのも、お前で間違いない」
「えっと、えっと……待って、ちょっと待って、ええと、どこから始めたらいい? 何一つ頭に入ってこない……」
 主? 後を追いかけた? 約束を交わした? 私? 間違いない? どうして? タケルくんにはすべてがわかっているのだろうけど、私は何一つわからない。頭の中はもうぐちゃぐちゃで混乱と困惑と謎の頭痛で吐き気すらしてくる。助けてほしい。どうしたらいい。私はタケルくんに懇願する。
「ご、ごめん、一から説明してくれる?」
「俺がする話を信じられるか?」
「し……」
 助かりたくて咄嗟に即答しそうになったけれど、先ほどのタケルくんの言葉を思い出して冷静になる。おそらく彼がする話は現実離れした話なのだろう。それは彼からすれば事実であるし、何より大事なことなのだろう。私の反応に一喜一憂し、傷つき、ひとり痛みを抱え込んだ。だからこそこれ以上は話したくないと言った。ならば真剣に答えなくてはならない。覚悟を持たなくては。
『忘れておしまいなさい』
『あなたがそれほどつらい思いをなさるなら』
 どこからか警鐘めいた声が響いてくる気がした。それを振り払う。謎の不調の解決の糸口があるかもしれない。それよりも、タケルくんに悲しい表情や苦しい思いをさせたくないのも確かだ。そのために私は知りたい。そして受け入れたい。深呼吸をし、私はうなずいた。
「信じるよ」
 そう告げてタケルくんをまっすぐ見つめる。タケルくんの方も真剣な表情で私を見つめ返した。視線が交わり続けるもふたりの間に沈黙はおりたまま。どれくらいが経っただろう。彼から視線を逸らさないのは、君の話を信じるという言葉を嘘にしないためだ。伝わるだろうか。やっぱりダメだろうかと思ったそのとき、タケルくんが躊躇いがちに口を開いた。
「八百万界という世界があった」
「やお、ろず?」
「そうだ。その世界は悪霊たちの侵略を受けて危機に瀕していた。そこで立ち上がったのが、俺たち英傑と彼らを統べる独神という存在だった」
 えいけつ、どくしん、と私がつぶやくと、タケルくんはひとつうなずいてから続けた。
「英傑たちの主、独神。それがお前だったんだ」
 
 数多の魂が行き着く場所、八百万界。そこで過ごした日々は振り返れば長くも短く、かけがえのない時間だった。特に、自分に帰る場所をくれた主には感謝してもしきれない。
 できることなら、ずっとそばにいたいという願いすら抱いた。そんな願いを知ってか知らずか、主は微笑みとともに何度も安らぎをくれた。
 やがて戦は終焉を迎え、八百万界に平和が訪れた。英傑たちはそれぞれの場所へと向かっていった。元の居場所へ戻る英傑もいたが、主を慕い、そばにいようと本殿から離れないという英傑も少なくなかった。しかし当の独神がそれを許さなかった。
 これからは自由に生きなさいと、英傑ひとりひとりの手を取って、彼らに別れを告げていった。
 別れを告げられた多くの英傑の中に、俺も、ヤマトタケルもいた。
 他の英傑の前では穏やかな表情で別れを告げていた主は、俺の姿を見るなり、涙を流し始めた。続いて彼女は口を開いた。約束を破ったことの謝罪、自由に生きろという命令、願い、いや、もはや懇願だった。そんな言葉は要らなかった。崩れ落ちそうな身体に触れる前に彼女は俺に背を向けて逃げた。その背を追いかけて、意識は途切れて、俺はこの世界に生まれ直した。今度はひとりの人間として、かつての大切な記憶も約束も胸に抱いたまま、主に再び会いたいと願いながら、日々を過ごしていた。
 そして再会は果たされ、今に至る。
 
 俺が語り終える頃には五時間目の始まるベルが鳴っていた。他の生徒の姿はもうなくて、俺と先輩は屋上の端の方に腰を下ろしたまま動かずにいた。
 さて、話を聞いた先輩の反応はどうだろう。思い出したか、思い出さないか、信じるか、信じないか。恐る恐る隣の様子をうかがうと、彼女はメモ帳に何やら書き込んでいる。
「……何をしてるんだ」
「キーワードをメモしてるの。何か手がかりになるかもしれないから。……うーん」
 書き終えた後に先輩はメモ帳とにらめっこを始める。何度も首を傾げてみたり読み上げたりと試みているが、何かを思い出すという気配はない。
 やっぱりそうか、自分だけかと、再び胸の辺りが苦しくなる。これ以上語ったところで何か変わることがあるだろうか。もはや意味はないだろう。俺はそう結論づけ、この場を後にしようと腰を上げた瞬間、ぐいと腕を引っ張られる。見れば先輩が俺の腕を掴んでいた。
「どこ行くの? 話せること、もう少しない? よかったら教えてくれないかな」
「……これ以上話したって、何の意味もないんじゃないか」
 先輩から目を逸らして、俺は腕を振り払おうとする。早く逃げ出してしまいたいのに、終わらせてしまいたいのに、先輩の手は離れてくれない。
「どんなに話したって、お前は思い出さないだろう」
「わからないよ」
「そうだろう。だから」
「そうじゃなくて、まだわからないよってこと。思い出すのって、そう簡単にできるものじゃないと思うから」
 そう言って先輩は俺の腕を再び引っ張る。座ってと促されて俺が腰を下ろすと、あのね、と言葉を続ける。
「忘れるのは簡単なんだよ。どんなことがあっても、忘れるものはすぐ忘れちゃう。勉強したことなんてなかなか覚えていられないし、忘れ物だってする。小さい頃のことは覚えていないことが多いし、何なら昨日何食べたかとかも忘れてることだってあるし」
「昨日のことも覚えてないのか……」
「覚えてないんだよ……たまに……。でも、ふとした瞬間に思い出すことがあるの。食堂を通ったときの匂いとか、数学の授業中にぼーっとしてるときとかにぱっと浮かんだりするんだ。えーと、何が言いたいかっていうとね、結論づけるのが早すぎると思うんだ。思い出すための情報も時間も何もかも足りないから、だからね」
 顔を上げた俺と先輩の視線が重なる。彼女の表情は真剣そのものだ。彼女は本気だ。本気で向き合おうとしている。そのことが伝わってきて、強張っていた身体がゆるみ始める。
「今日から、私は知っていきたいんだ。まだ今の私が知らないことがたくさんあると思う。だから教えて? 時間をかけて、八百万界のこと、英傑のこと、君のことを、私に教えて」
 そう言って彼女が浮かべた笑みを見て、冷えていた身体に熱が灯る。沈みかけていた心が、彼女の言葉で、浮上する。なぜだろうか、目頭が熱くて、視界がぼやけて。
「こーら、そこのおふたりさん! もう昼休みは終わりなんだけどなー?」
「わっ!?」
 突然の声に先輩が驚いて悲鳴をあげた。振り返ると保健室の先生が俺たちを後ろから覗き込んでいた。
「もう、君の担任が顔真っ青にしてさー、『またどこかで倒れてるんじゃ!』とかって保健室に来たから探しに来たんだけど、ふたりして仲睦まじいようで? お邪魔したかな?」
「えっ、そ、そんなつもりじゃ、て、ええっ、お昼休み終わってて、こんな時間!? も、戻らなきゃ!」
 時計を確認して先輩が慌てて立ち上がった。先輩が離れていく。こちらに背中を向けて、遠ざかっていく。つい手を伸ばして引き止めようとした瞬間、先輩が振り返った。
「タケルくん、またね! また話そうね!」
 そう言い残して彼女は屋上を後にする。屋上には俺と先生がふたりだけが残った。
「うんうん、元気そうでよかったな。で、タケルくんは戻らないの? 教室」
「え?」
「いやいや、え、なんで? みたいな顔しないでくれるかな? 一応元気でしょ、君、うん? 泣いてる?」
 慌てて袖で目元を拭うと、先生は驚いた様子を見せてから俺をまじまじと見つめてくる。
「なんかあった? 実は具合悪い?」
「いや、何も」
 しみができた袖をパンパンと手で払う。脳裏に先ほどの彼女の言葉がよみがえる。
『タケルくん、またね! また話そうね!』
 ふたりの縁は切れることなく、つながったままなのだと実感することができて、俺は安堵の息をついた。やっぱり具合悪いんでしょ、という先生の言葉に首を横に振ってみせた。
「具合は、かなり良い」
「そっか。それならいいけどさ。じゃ、タケルくんも教室戻ろう」
「え?」
「だから! そんな顔しない! 具合良いんでしょ! 教室に戻りなさーい!」
 先生の怒号が屋上に響いた。
 
 その日の放課後。俺は二年生の教室の前でホームルームが終わるのを待っていた。他の教室から出てきた上級生たちの視線も気にせず、何やら聞こえてくる歓声やひそひそ話も気にせず、堂々とのんびりと。
 二年A組は他の教室よりもホームルームが長いらしい。何か言いたげな上級生とは視線を合わせず、ただその時を待っていると、五分ほどのちに教室の扉が開いた。わっと出てくる上級生たちの間をぬって、俺は教室に入っていき、帰る準備をしている彼女のもとに近づいていく。
「先輩」
「えっ、タケルくん!?」
 びっくりしているのか彼女は目を丸くしている。その反応に友人と思われる女子たちがわらわらと近くに寄ってくる。
「あ、噂の一年の子じゃん!」
「なになに? お誘い? やるじゃん!」
「へー、すみにおけないねえー」
「もう、そんなんじゃないってば。タケルくんは、えーと、後輩だよ? ただの先輩と後輩、ね? 何か話があるんだよね?」
 からかってくる友人たちに頬を膨らませ、俺の方に用件を聞いてくる。
 俺は。
 後輩。
 ただの、先輩と後輩。
 少し唇を噛む。今日の時点ではまだそういう関係でしかない。けれどいつか、お互いを、大切にし合えるかつてのような関係になれたら。今世でも、互いに思い合えたら。そう願いながら、俺は彼女の手を引いて誘いかける。
「一緒に帰りたいんだ。ゆっくり話をしながら」
 時間をかけて、思い出を語りながら、お前を。
(続く)

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