その日を夢見るシンデレラ(クリギム)

 シャンデリアが揺れるホールに彼女とふたりきり。少しぼやけた視界の中、ふたりで手を取り合い、夢見心地のままにステップを踏んでいた。
 いつまでもこの時間が続けばいい。微睡の中、そう思っていた矢先、幸福な時間は終わりを告げた。
『魔法が解ける前に、さようなら』
 突然そう言って、彼女は手を振り払い、その場から去っていく。
 追いかけても、差は広がっていくばかり。走れど、もがけど、彼女は離れていく。手を伸ばせど、届かない。
 彼女の背中が見えなくなって、豪奢なホールに残るは自分ひとり。徐々にはっきりとしていく世界のどこにも彼女の姿はない。
 硝子の靴すら残さずに、彼女はこの場から去っていってしまった。
 唯一よすがとすることができるのは、三分にも満たない逢瀬の記憶ゆめだけ。

 二月。
 季節でいえばまだ冬のはずだが、ここのところ春のような陽気が続いている。近くの川沿いの桜も咲き始め、いよいよG1レースも開幕した頃のとある昼休み。
「ようこそ『Cheers to Gimlet』へ……おや……?」
 いつになく、どこか沈んだ様子の来客に、店主であるタニノギムレットは怪訝な表情を見せた。
「浮かない表情だな、我が好敵手、シンボリクリスエスよ」
「……ギムレット」
「話を聞くのも店主の務め。さあ! その胸の内に秘めた思いを! 表に曝け出すがいい!」
 そんな提案を受けて、少々逡巡した様子を見せた後、クリスエスは口を開いた。
「――昨晩、夢を見た」
 誰とだったのかは覚えていない。その誰かと踊っていた夢だった。そしてその誰かに唐突に別れを告げられ、置いていかれ、ひとりきりになる夢だった。
 目が覚めて感じたのはどうしようもない気だるさと寂寥。普段のようにうまく切り替えられず、今に至る。自分はどうしてしまったのか。何が原因で夢を見たのか。何もわからない。
 ゆっくりと言葉にし終えたクリスエスに、ギムレットは何度か頷いたのちに口を開く。
「それは、オマエの魂の欠片フラグメントが見せた、いつかの終焉ゆめだろう」
「夢……?」
「……夢というよりも現と呼ぶべきか。かつてどこかの世界で、オマエが遭遇した終焉わかれ……その際の誰かの未練ねがいが心身にまとわりついて離れない……ワタシにはそう感じた。フッ、そんなオマエに必要なのは目覚めのモクテルだ。三つの果実を合わせた至高の一杯を贈ろう」
 そう言ってギムレットはシェイカーを手に取った。
 オレンジジュース。
 パイナップルジュース。
 レモンジュース。
 それら三つを容器に入れてシェイクした後、グラスに注げば完成だ。
「名付けて、共に夢を見る乙女たちシンデレラだ」
 差し出されたグラスを手にして、クリスエスはモクテルをひとくち飲む。オレンジ、パイナップル、レモン。それぞれの果実の甘味と酸味が調和し、口の中には爽やかさが残る。ゆっくりと、薬を流し入れるようにモクテルを飲む。しかし、飲み干してもなお、胸に残る寂寥は消えない。
 クリスエスはゆるゆるとギムレットに視線を向ける。
 かつてどこかの世界で遭遇した終焉わかれ。それは去年、この世界で経験したことだ。
 去年の初夏、彼女とクラシックの大舞台で競い合った。再戦を誓い、厳しい暑さの夏を越えた。そして秋を迎え、自分は、彼女は、互いの道は。
「――シンボリクリスエス。目覚めには二杯目が必要か」
 ギムレットが静かに問う。その問いに対し、クリスエスは身じろぎもせずに沈黙を貫く。必要ではない。いくら飲んだところで事実は変わらない。そんなクリスエスに、ギムレットはふうと息をついてみせた。
「それともオマエに必要なのは啓示か……ならばここで宣言しよう。俺はこの先、再びターフに舞い戻り、安田記念と宝塚記念に出走する!」
「……っ!」
 突然の衝撃的な宣言にクリスエスは息をのむ。無理もないだろう。彼女は、タニノギムレットは、昨年の秋に引退を宣言したのだから。再びターフで邂逅することはないと思っていたのだから。顔を上げたクリスエスにギムレットはにやりと笑ってみせる。
「おや、ずいぶんと驚いているな? ワタシを焚きつけたのはオマエの方だというのに」
「――私が?」
「去年の天皇賞・秋、そして有馬記念。圧巻の走りをオマエは観衆に示した。その観衆の中に、無論俺も含まれていた」
 その走りに観衆は震えた。シニア級のウマ娘に引けをとらない実力。記録にも記憶にも残るそのレースに、ぞくぞくしたはずだ。そしてさらにギムレットの胸には熱が灯った。
「ワタシの輝きを上書きされまいと! 再び初夏の大舞台以上の一戦を交えたいと! 再びターフを駆けたいと、魂(ワタシ)が叫んだ! ――ゆえに現在は陰に身を潜めながら、ひそかに復帰に向けて動き始めている」
「そう、だったか……」
「フッ、ここから先はワタシも知らない未知の世界。おそらくオマエとは宝塚記念で再び巡り会うことになるだろう」
 おそらく宝塚記念は大波乱が予想される。タニノギムレットの復帰に、伏兵の存在、確かな実力を持つ傑物たちに、クラシック級からの参戦すら可能性がある。
「もはや何が起きるのか誰もわからない世界。奇跡が起きてもおかしくはない世界。実に、実に面白い!」
 さあ、誓いの乾杯を!
 そう言ってギムレットは二人分のグラスにシンデレラを注ぐ。そしてグラスを手に取り、高らかに誓う。
「幾百億の夜の果て、未知なるこの世界で再び楔を破壊し、観衆を酩酊させよう。それが俺の誓いだ」
 さあ、オマエはどうする。そんなことを言いたげな視線を受けて、クリスエスもグラスを手に取り、静かに誓う。
「――幾百億の夜の果て、未知なる世界に革命をもたらし、使命を果たす。それが、私の誓いだ」
 お互いの視線が絡み、グラスは高く掲げられる。
 再び共に、ターフを駆ける日を夢見て。
 乾杯。
 いつの間にか寂寥はもはや跡形もなく消えていた。

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