おいていくのは、いつだって。
おいていかれるのは、いつだって。
(妙な夢を見た気がする)
部屋は暗い。ライトをつけて時刻を確認するとまだ夜中の一時だった。夜明けまではずいぶんと遠い。もう一度寝ようとするがどうにも眠れない。なんとなく喉も渇いている気もした。
何か飲みに行こうか。深いため息をつき、シンボリクリスエスはベッドから離れ、自室のドアを開けた。するとリビングのライトがついていることに気づく。
寝る前に消し忘れたか、あるいは、彼女が帰ってきているか。リビングに続く戸を開けると、ソファに腰掛けていた彼女がゆっくりと振り向いた。
「おや、城主。深夜にお目にかかれるとは、珍しいこともあるものだ」
そう言って、タニノギムレットはカクテルグラスをかかげて笑んでみせた。
クリスエスが寝酒を求めると、ギムレットは快諾し、早速に準備に取りかかっていた。
ブランデー。
キュラソー。
グレナデンシロップ。
そして卵黄。
「……卵黄?」
「おや、卵黄を使うのは珍しくはないだろう?」
それはそうなのだが、卵はブランデーに合うのだろうか。オレンジの風味や、ザクロの風味に合うのだろうか。
「フッ、一見して奇妙な組み合わせにも意味があり、そして深い味わいがある。それがカクテルの魅力でもある。まずは飲んでみるといい」
そう言いながら、ギムレットは容器に先程の材料を入れてシェイクを始めた。
ふたりがトレセン学園を卒業して数年が経った。互いに酒を飲めるようになった年になり、時にこうして酒をたしなむことも増えてきた。ギムレットの方はモクテルはもちろん、カクテルも作るようになり、時折こうして、自慢のカクテルをふるまってくれることがあるのだ。
(それにしても、奇妙な縁だ)
あのレースを最後にそれぞれの道を歩いていたふたりだったが、ひょんなことから再会し、紆余曲折を経て、今ではルームシェアをしている。
とはいえ、ギムレットはときどきメッセージカードだけ残して、数日帰ってこないこともあるが、こうしてクリスエスが眠れない夜に、ふらっと帰ってくることが多い。クリスエスを案じて駆けつけているかのようにも感じる。まあ、たまたまであろうが。
「完成した。名づけて『眠れぬ夜に優しき抱擁を』だ」
そんな紹介とともに差し出されたカクテルグラスを手に取り、ひと口飲む。やはり甘いというのが最初の印象だ。そして卵黄は、その甘みを抱擁するかのように包み込み、まろやかな味わいとしている。
アルコールが入っているため、飲むほどにクリスエスの頬は熱くなっていく。カクテルを飲み干してしばらくすれば、心地よい酔いと共に眠気が訪れてきた。
「おっと、ここで寝ては風邪を引く。眠るのならば温かなベッドに向かうべきだ、城主(ロード)よ」
素直にうなずき、クリスエスは立ち上がる。頭も身体もどこかぼんやりとして、ふわふわとして心地がよい。
「おやすみ、クリスエス」
やさしい声音で紡がれた言葉を、クリスエスは夢見心地で聞いていた。
アラームが鳴り、クリスエスは目を覚ます。カーテン越しの朝日で部屋は少し明るい。起き上がり、カーテンを開ければ眩しい光が入ってくる。時計は七時。すっかり朝だ。
今日は珍しくクリスエスは休みの日で、ギムレットも戻ってきている。久しぶりに共に朝食でもとろうか。
たしかパンが何枚か残っていた。トーストにして、焼きたてのそれにたっぷりバターを塗ろう。卵もいくつかまだ残っているだろう。スクランブルエッグか、目玉焼きがいい。そういえば、昨日、とっておきのコーヒー豆をもらってきていたのだっけ。食べ終わった後にはブラックコーヒーをご馳走しよう。昨日のお礼に。
そんなことを考えながら、足取り軽くリビングに向かうと、ギムレットの姿はなかった。どこかに行ったのかとあたりを見やれば、テーブルにはメッセージカードが置かれていた。
(……ああ)
どこか浮かれていた気分はたちまち霧散した。白いメッセージカードで一気に目が覚めたような気がした。
おいていかれるのは、いつだって。
メッセージカードを手に取り、そう目を伏せた瞬間、玄関のドアが開く音がした。
「クッ、外は凍土の如き寒風が吹いている……生身では堪えるほどの寒気……これでは神々も嘆きを……ん?」
震えながらリビングにやってきたギムレットは、立ち尽くしていたクリスエスに気づく。春は未だ遠いこの時期に、ギムレットはコートも羽織らずに外に出たらしかった。
「おはよう、クリスエス。どうした。まだ微睡の中……覚醒には至らずといったところか?」
「……今まで、どこへ?」
「寒風吹き荒ぶ中、力を使い果たしながらも、再起を図る物たちの船出を見届けていたところだ」
要は資源ごみを出してきたということを言いたいらしい。
「かの物たちは再び我々のもとに戻ってくるだろう。新たな力をその身に宿して……おや、手紙に気づいたか」
ギムレットはクリスエスの手にあるメッセージカードを覗き込んだ。改めてクリスエスもそれに視線をやって気づく。いつもならば、旅に出るなどと、しばらく出かける旨が書かれているのだが。
「……白紙?」
「フッ、気づいたようだな。白紙のメッセージカードに秘めた俺からの提案に、オマエは気づいたか?」
「いや……」
白紙のものが置かれているのは初めてのことだ。意図がわからず、クリスエスは困惑する。そんな彼女を見て、ギムレットは黒のペンをテーブルから持ってくる。
「そのカードは近い未来を表している。何も描かれていない、誰も知らない近い未来……それを決めるのはオマエだ、クリスエス。書き出せ、描き出せ、オマエが望む未来に、俺を導いてみせろ!」
高らかに告げる彼女から差し出されたペンを取り、クリスエスは逡巡する。そしてキャップを取り、カードに一文を書き上げた。
『共に朝食を』
「……これでいい」
「存外、ささやかな願いだな」
ギムレットは何やら物足りなそうにしているが、願うのは、望むのはこれだ。ここのところ、共に朝食をとっていないのだから。
「ならば、オマエの望むままに」
そう言ってギムレットがキッチンへ向かうのをクリスエスは制する。今日は私が、という言葉に、またしてもギムレットは物足りなそうな顔をしてソファに腰を下ろした。
「……カードはまだあるが?」
「この先のことは朝食をとってから考えることにする」
そう返して、クリスエスは腕まくりをして、キッチンへと向かった。
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