王たる道を駆ける彼女たちへ(タニノギムレットとモブウマ娘とウオッカ)

 彼女を知ったのは偶然だった。
 久々に走ろうかと思って訪れたグラウンドで、彼女は走っていた。しなやかな体躯に反してその走りは豪快そのもの。前を走る併走相手に追いつき、差を縮め、かわしていく。あまりにも力強い走りに、つい見惚れてしまった。
 ウオッカ。
 それが彼女の名前だった。
 彼女の走りに魅せられて、何度となくグラウンドに足を運んで、数ヶ月が経った。今日も私はウオッカが走るのを見ていた。彼女は昨年ジュニア級の女王となり、ティアラ路線では注目されているひとりとなった。先日の桜花賞での戴冠は逃したものの、なおも鍛錬を続け、その走りは日に日に力強さが増している。
(きっと彼女なら、樫の女王に……)
 そう思いを馳せているときだった。
「まさに、因果を引き寄せ、見るものの魂を震わせる走り……そう思わないか?」
 急に声をかけられ、私は思わず悲鳴をあげそうになった。すんでのところであげずに済んだけれど。声がした方を向くと、声の主はすぐ隣に立っていた。彼女のようにしなやかな体躯の、それでいてどこか耽美な雰囲気をまとわせたウマ娘。一体どこの誰だろう。トレセン学園の制服を着ているのだから生徒ではあるのだろうけど。
「フッ、ワタシとしたことが、名乗るのを忘れてしまった。敬虔なる慈愛の乙女よ、俺のことは知っているな?」
「え? ええと……?」
 わかるはずもない。名乗るのを忘れたのなら名乗ればいいだろうに。そう思っていてふと気づく。そういえば今朝、高笑いをしながら柵を破壊して、高笑いをしながら柵を修理していたウマ娘がいた。確かこんな容貌だったような。ああ、もしや彼女はかの有名な……。
「タニノ、ギムレット……?」
「ククッ、やはりワタシの名を知っていたか」
 タニノギムレット。柵を破壊しては修繕している姿をしばしば見かける。独自の美学をレースにおいても貫き、トゥインクルシリーズにおいては、マイル路線とクラシック路線をどちらも選び取る、MCローテを走ったウマ娘として有名だ。
「これもまた因果のひとつ、魂の欠片が呼び合った結果か……」
「……ええと?」
 何を言っているのかわからない。新手の口説き文句だろうか。そんな私の表情を見て、どこか残念そうにしつつも、タニノギムレットは問う。
「さて、これも何かの縁だろう。あの走りを、ウオッカの走りを、オマエはどう見る? 己の感じるままに答えるがいい」
「そう、ね……安定感のある走りだと思う。それでいてひとを惹きつける、鮮やかな走り……」
 私はうっとりと目を細めた。豪脚という武器を持ち、速さも力強さもある彼女なら、きっと大丈夫だ。
「あの子なら、樫の女王になれるでしょうね」
「……ほう? 樫の女王か」
「……何?」
 声音に引っ掛かるものを感じて、むっとして私は彼女をにらみつける。そちらも彼女の走りを高く評価していたのではなかったのか。それに気づき、タニノギムレットは首を横に振ってみせた。
「失礼。気分を害したのなら謝罪しよう。ただ……噂は聞いていないか? 次のレースの予定を。ウオッカが目指すのは樫の女王ではない」
「え?」
 オークスじゃないのならどこを走るというのだろう。その疑問に答えるように、タニノギムレットは告げた。
「王たる道の頂き……日本ダービーだ」
「……え?」
 あのひとと同じように?
 私は言葉を失った。

 同期のあのひとは憧れだった。
 そうは言っても、同じレースを走ったのは一度きり。ティアラ路線の一戦目、桜花賞だけ。それでも私は嬉しかった。一度きりの大舞台に立ち、彼女と走れるのは誇りであり、幸せだった。
 桜花賞は女帝不在。ジュニア級の女王であった彼女は注目を集めていた。しかし彼女の走りは精彩を欠いていた。彼女は心身の調子を崩していたという。こんな走りが彼女であるはずがないと思っていたから、それを聞いて私は安堵さえした。
 ティアラ路線二戦目のオークス。ここで女帝と女王がぶつかり合うと思っていた。
 しかし、あのひとはオークスではなく、日本ダービーを次のレースに選んだ。
 どうして?
 世間曰く、彼女は女帝を恐れ、逃げたのだと。
 違う、彼女は選んだ、のに。
 けれど、選んだはずのダービーという舞台で、彼女は。

「そんなこと、許されるわけないじゃない!」
 声を荒げた私にタニノギムレットは少しも動じない。
「どうしてそう思う?」
「前代未聞だわ! 桜花賞の後にダービー? そんなめちゃくちゃで、そんな、そんなことをしたら……」
 彼女は逃げた?
 違う。立ち向かっただけ。
 嘘! 彼女は逃げた!
 違う! 彼女は立ち向かった!
 いいえいいえ、逃げて、走って、そしてその挙げ句。
 違う違う違う! 彼女は!
 けれど彼女の脚は耐えきれなかった。
 だから、そんなこと、あってはならないのだ。
「そんなことをしたら、押しつぶされて、壊れてしまうんだから……!」
 あのひとの走りはまたも精彩を欠いていた。怪我をしたのだ。長期離脱を余儀なくされて、その後、復活をすれどもまたも怪我をした。ダービー出走の経験は生涯つきまとった。誇りなのだと認めていても、周囲のノイズは消えない。
 ダービーに挑戦した、ティアラ路線のウマ娘はいた。けれど万全の調子で迎え、実力を示したウマ娘はどれだけいるだろう。
 周囲からの声に耐えきれたウマ娘はどれだけいるのだろう。
 なぜ茨の道を行くの。
 なぜ逃げたの。
 なぜオークスではなく、日本ダービーなの。
 私は手で顔を覆った。
 ウオッカもあのひとと同じ道を行く、行ってしまう、きっとその結果は彼女に影を落とす。それが耐えきれない。
「敬虔なる慈愛の乙女よ」
 タニノギムレットの声が静かに降ってくる。
「ならば、なおのこと、オマエは見届けるべきだ。見届けて、その思いを昇華しろ。ウオッカは常識を破壊し、快挙を成し遂げ、新たな世界を作り出す。オマエの憂いなどお構いなしに、直線を先頭で駆けてくるだろう」
「どうして……」
 私は手をはなし、ゆるゆると顔を上げた。
「そんなこと、言えるの、そんなにも自信をもって……」
「知っているからだ」
 ワタシの中の魂がそう告げているのだと、タニノギムレットはよくわからないことを言う。
「ウオッカにはそれだけの力がある。五月二十七日。ともに見届けるぞ、選択のその先、運命の一戦をな」

 必ず来いと、タニノギムレットに念を押されたものの、観に行く決心がつかないまま、日本ダービーの日は迫ってきていた。
 グラウンドの近くの自動販売機でお茶を買い、ベンチに腰を下ろす。喉は渇いているのにお茶を飲む気にもなれず、私はため息をついていた。ぼんやりとそのまま座っていると、トレーニング終わりらしいウマ娘たちが噂話を始めた。耳に飛び込んできたのは信じられないといった声だった。
「うっそ! それ本当? ウオッカさんが、ダービー?」
「そうみたい。もうこの話題でもちきりよ」
 ウオッカの話題だ。思わず私は身を固くする。そんな私のことなど気にせず、ふたりは話を続ける。
「桜花賞を走ったら普通は次はオークスでしょ! あんなにいい走りしておいて、負けたからってスカーレットさんから逃げるなんて!」
「でもねえ、スカーレットさんも熱が出ちゃって、オークスを走らないらしいの」
「ええっ、じゃあ何の問題もないじゃない。樫のティアラを手に入れるチャンスよ。なんでダービーなんかに出るのかしら」
「わからないわ。ティアラが欲しくないのかしらね。それに……無謀だわ。王道路線の子たちと一緒に走っても……ね? 勝算があるのかしら?」
「まあ、ジュニア期女王ではあるし、実力は確かだけれど……それでもね……? まったく何を考えてるのかしら」
 そう言いながらふたりはその場を去っていく。それでも私の身体の強張りは消えない。これが世間の声だ。
 どうしてオークスじゃないのか。
 前代未聞だ。
 無謀だ。
 逃げた。
 勝算などあるのか。
(やっぱり、厳しい目を向けられている……)
 期待をし、挑戦を賞賛するひともいるだろう。だが挑戦を笑い、真意を疑うひとの方が多いだろう。ウオッカの日本ダービー出走はかなりの逆境の中での挑戦になる。
『ウオッカは常識を破壊し、快挙を成し遂げ、新たな世界を作り出す。オマエの憂いなどお構いなしに、直線を先頭で駆けてくるだろう』
(タニノギムレットはそう言うけれど……でも……)
「……ったく、好き勝手言ってくれるぜ」
 突然聞こえた呆れ混じりの声にびくりとして、私は恐る恐る顔を上げる。そして近くに立っていたウマ娘の姿を見て、呼吸が止まりそうになった。
(ウオッカ!)
 ノイズを間近に耳にした彼女に私の心が悲鳴をあげそうになる。痛くなる。
「でも、何を言われても俺は走るだけだぜ! って、わっ、すんませんっ! 急に大声出してっ!」
 私の存在に気づいたらしく、すぐさまウオッカは頭を下げた。
「え、えっと、う、ううん、気にしないで……?」
「ちょっと熱くなっちまって……」
「……気にしていないの?」
「え?」
「えっと、さっきの話……」
 日本ダービーへの挑戦をひとは笑う。
 前代未聞だ。
 無謀だ。
 逃げた。
 勝算などあるのか。
 様々なノイズはここだけでなくどこにいても耳に入るだろうに。
「あなたは、気にしていないの?」
 そんな私の問いにウオッカはちょっと苦い表情を浮かべた。
「全然気にしてねえ……なんて言ったら、嘘になります。俺だってわかってるつもりです。無茶苦茶なローテだって」
 でも、とウオッカは続ける。その真剣な表情に私は思わず息を呑む。
「ダービーは俺にとって夢の出発点なんです」
 だが憧れたまま、遠巻きに見つめるまま終わらせるつもりはない。喰らって仕留めて、あの栄冠を手にしたい。無謀だと言われてポリシーを手放して諦めるなんてカッコ悪い。
 だから。
「誰に何を言われたって構わねえ! 前代未聞も無謀も上等! 俺は、俺の決めた道を行く! 憧れた夢の舞台、日本ダービーに行く! 勝つ! そう決めたんで!」
 笑顔とともに告げられた彼女の力強い決意は、憂いで曇る私にはあまりにもまぶしかった。けれど確かにそのとき、目の前は、晴れ間が差したような気がしたのだ。

 迎えた五月二十七日。舞台は東京。最も運命に愛されたウマ娘が制するという、クラシックの一冠、日本ダービー当日。
「やはり来たか。待っていたぞ、因果に引かれし、敬虔なる慈愛の乙女よ。ようこそ、日本ダービーへ」
 恭しく一礼をし、私を待っていたらしいタニノギムレットは嫣然と笑ってみせた。相変わらず小難しいことを言っている。なんだか落ち着かない私とは反対に、タニノギムレットには緊張は見られない。かつてこの舞台に立ち、制覇したという実績があるからだろうか、あるいは自信があるからなのだろうか。
 挑むウマ娘にとっては、一生に一度の大舞台。多くの観客がこの一戦の行方を見届けようとしている。びりびりとした緊迫、まっすぐな期待、願い、祈り。さまざまな意味をはらんだ観客たちの熱狂を間近で感じてしまい、さすがに気圧される。とはいえ、最初ほどの絶望感はなかった。
『誰に何を言われたって構わねえ! 前代未聞も無謀も上等! 俺は、俺の決めた道を行く! 夢の舞台、日本ダービーに行く! 勝つ! そう決めたんで!』
 それも彼女の決意を聞いたおかげだ。もちろん不安はまだ残ってはいるけれど。
 パドックの時間となり、ウオッカの登場に会場はやはりどよめいた。それでもウオッカは落ち着いており、観衆やライバルとなる出走ウマ娘たちからの視線に一切動じていない。
(……強い子ね、ウオッカ)
 調子も絶好調のようだ。逆境の中にあっても余裕の笑みさえ浮かべている。
「本当に、強い子……」
 私と同様に、タニノギムレットもまたウオッカの姿に目を細めていた。
「この日をどれだけ待ちわびたことか……。さあ、世界を変える二分半弱、日本ダービーが始まる! ここからは、一瞬たりとも見逃すことは許されない!」
 観衆よ、目に焼きつけるがいい。
 タニノギムレットが高らかに謳いあげ、運命の一戦が始まった。
 ゲートが開き、一斉にスタートした。それぞれのウマ娘が脚質と作戦に合わせて位置につく。先頭を行くもの、追走するもの、仕掛けどころを見計らい、中団以降に続くものなど様々だ。
 ウオッカは中団あたりにひそんでいた。彼女の脚質は差し。最大の武器は直線に入ってからの末脚。しかし仕掛けるタイミングや位置どりを少しでも誤れば、たちまちに勝機を失う、リスクのある脚質だ。
(怖い……)
 三番人気にのぼるほどの期待と、同じだけの批判や侮蔑を背負って彼女はこの舞台に立っている。もし勝ったのならすべてが賞賛に変わるだろう。けれどこのまま伸び悩み、負けてしまったら? 聞くに耐えないほどのノイズが彼女を覆うだろう。
(……嫌だ)
 じりじりとレースは終わりへと近づいていく。コーナーに差しかかり、観客たちの声が上がる。そして直線に入ったところで私はウオッカの姿を見失ってしまい、さっと血の気が引いた。どうしよう、どうしよう。最悪の事態まで考えてしまい、私はとっさに目を閉じた。
 ああ、あの子も、あのひとのようになってしまうのではないか。後ろ向きな思考に支配され、深い深い水底まで沈みかけた直後。
「目を開け!」
 タニノギムレットの声で意識は引き戻される。視界はクリアになる。レースはまだ終わっていなかった。それでも動悸がおさまらない私に、タニノギムレットは静かに語りかけてくる。
「見失ったのならばなおのこと、目を開けて、時を待て。じきに光が見えてくる……見えないか? 常識を破壊せんと、夢を掴まんと、疾走するウオッカの姿が……!」
「ウオッカ……?」
 目をこらす。彼女の姿は簡単に見つかった。あの日見惚れた豪脚でターフを駆けていたから。集団の中から抜け出して、逃げていたウマ娘をとらえ、かわし、差を広げていった。彼女が先頭を駆けてくる。そしてそのまま誰も寄せつけずに一番でゴールをした。
 観衆はどよめき、そしてややあってから、彼女が成し遂げた快挙に歓喜の声をあげたのだった。

「そして叙事詩はさらに続いてゆく……さあ慈愛の乙女よ、注文オーダーを。勝利の美酒は何をご所望で?」
「え? 急に言われても……思いつかないけど……」
「おやおや、それでは困る。あらかじめ決めてもらわなくては。あと五回はウオッカへの祝杯を上げることになるだからな」
「また根拠もない、訳のわからないことを……」
 これからウオッカはさらに五回もG1を勝つというのだろうか。出走するだけでも偉業であるこの世界の中で。
 でも、彼女なら本当に成し遂げてくれるのかもしれないと思えた。
 ダービーへの挑戦は無謀なんかじゃなかったのだと教えてくれた彼女ならば、必ず。

 そして何度目かの春が来て。

「そろそろクラシックだね。やっぱりこの春目指すのは桜花賞とオークス?」
「うーん、それもいいけど、私、ダービーに出ようかなって」
「へえ! いいね! カッコいい!」
「えへへ、そうでしょ! 私、ウオッカさんみたいに、カッコいいウマ娘になりたいの!」

 またひとり、ダービーへと挑戦するウマ娘が現れる。

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