恋人遊戯(アベ穹)

 穹は目の前を行く男女ふたりに目を留めた。手を繋ぎ、笑い合うふたりは恋人同士なのだろう。とても幸せそうだった。
 いいなあ。
 淡い憧れは声に出ていた。
「恋人、欲しいなあ……」

「恋人?」
 アベンチュリンの声にはっとして穹は我に返った。いけない、いけない、友達との会話中にぼんやりとしてしまった。その上道行く誰かに気を取られるなんて。穹は隣に座るアベンチュリンに謝った。
「ごめん、アベンチュリン。ぼーっとしてた」
「ビジネスの話は退屈だったかな? それで、恋人が欲しいっていうのはどういうことか教えてくれるかい」
「え? ああ、なんかさ、いいなって思って」
 今日はいつも以上に恋人だらけのこの広場。友達である穹とアベンチュリンがいるのが異質なくらいに、幸せで甘い雰囲気がどこからも漂ってくる。アイスを分け合い、笑みをこぼし、たまに熱っぽく見つめ合っては笑い合う。ときどきベンチで熱烈なキスを交わしているふたりもいてびっくりするけれど、互いに幸せである証拠だろう。
「うまく表現できないけど、なんかこういう幸せそうなのっていいなって思って、俺も恋人欲しいなって思ったんだ」
「君に恋人……」
 アベンチュリンは穹を見つめる。値踏みするかのような視線に穹は居心地の悪さをおぼえる。アベンチュリンの表情は厳しい。やがてひとつうなずき、彼なりの結論を出した。
「難しいだろうね」
 バッサリと言い切ったアベンチュリンに穹は唇をとがらせた。
「結論出すの早すぎないか? できるかもしれないのに!」
「できたとしてもだよ。あまりにも君は特殊すぎる。星核を抱えたナナシビト。開拓の道を行く旅人。知人やビジネスパートナー、友達としては刺激的で最高だけど、恋人としてはそれは不安材料になる」
「なんか専門家みたいなことを言い出した……」
「君より経験はある方だからね。そして君、恋人がいたことはないだろう? その上、恋愛もまだと見た」
「決めつけるなよ! 恋人がいたことがないのは、まあ、それは、その通りだけど……」
「そうだろう? それでも恋人が欲しいのかい?」
 いらないと言わせたいのだろうか。いいじゃないか、夢を見るくらい、淡く憧れを持つくらい! すでに穹は不機嫌になっていた。
「マイフレンド。冷静に、胸に手を当てて考えてみてごらん。もう一度聞こう。それでも恋人が欲しいのかい?」
「胸に手を当てなくったって決まってる。欲しい!」
 穹の答えに、そう、とアベンチュリンはひとつうなずいた。そして厳しい表情から一転してにっこりと笑みを浮かべた。
「なら、今のうちに経験を積んでおこうか」
「経験……?」
「経験があればカバーできることは多いからね」
「え、まさか、今から恋人を作るのか!?」
 そうはさせないよ、とアベンチュリンは表情を険しくさせて首を横に振った。
「本番でなければ経験にならないわけではないからね」
 練習を積み重ねることも経験になる。というわけで。
「僕が恋人の練習に付き合おう。なに、気負わなくていい、いわゆる『ごっこ遊び』というやつさ」
「ごっこ遊び……?」
「そう、恋人ごっこ、だよ」
 恋人ごっこで練習しよう。アベンチュリンはそう提案してきた。
「遊びだからこそ、真剣に取り組んでほしいな。そのためにはまずはルールを確認しよう」
 一つ目は、君も僕も、ごっこ遊びのときには誰より愛しい恋人だと思うこと。
 二つ目は、遊びの中ではお互いの名前を呼ぶこと。
 三つ目は、相手が嫌だと思うことはしないこと。
「合図も決めておこうか。そうだな、準備ができたら相手の名前を呼ぼう。準備ができていたら返事する。わかったかな?」
「えーと……?」
「例えば僕が君の名前を呼ぶ。穹、準備はいいかい?」
 名前を呼ばれて穹は目を丸くした。いつものような『星核くん』や『マイフレンド』という呼び方ではない。確かに名前を呼ぶとは言っていたけれど、実際に呼ばれるとなんだかむずかゆい感覚が身体中を走っていく。
「別に『星核くん』でもいいぞ?」
「そうかな? 穹って呼ぶ方が恋人らしいんじゃないかな」
「そう……かも?」
 そうだよ、と返され、穹は了承した。穹、穹、と呼ぶアベンチュリンの声を脳内で反芻する。するほどに、穹は落ち着かなくなる。この感覚はなんだろう。
「なんか……お前にそうやって呼ばれると、こう……むずむずする……」
「ハハッ、回数を重ねれば慣れていくさ。まずは呼び方に慣れるまで呼ぼうか?」
「いらない! えっと、次の練習……遊びをしよう。そっちの準備ならできてる」
「じゃあ、さっそく始めよう。穹、とりあえず恋人らしいこととして、何をしてみたい?」
「え……」
 恋人らしいこと、と言われても急には思いつかない。そもそも知らない。その中で何をしたいかなんて決められない。
「わからない……アベンチュリン、教えてくれ」
「恋人らしいこと……そうだね、ハグとかキスとか?」
「え?」
 あっちのベンチのふたりを見てごらん、と言われて視線をやれば、恋人同士が抱きしめ合って熱烈なキスを交わしているところだった。あれを、自分と彼が? そんなことを想像するだけでむずかゆいどころでない感覚が穹を襲う。そして何やら互いにもぞもぞ動いていることにも気づき、穹は慌てて視線を逸らして首を振った。
「いやいや早い早い! ああいうのは練習とか遊びでやるものじゃないだろ! そういうのは本当の恋人を相手にすること!」
「そうかな? ハグは恋人はもちろん、恋人でなくとも相手を慰めるときにも使うと思うけど……。じゃあ、あのふたりを見てごらん」
 恐る恐るアベンチュリンが指さす方を見ると、先ほどの幸せそうな男女の姿があった。ベンチに座り、手を繋ぎながら談笑をしている。やはりどちらも幸せそうでついこちらも笑みを浮かべてしまう。あれこそが憧れる恋人の姿だ。
「じゃあ、あのふたりのように手を繋ごうか。お手をどうぞ」
 アベンチュリンが手を差し出した。その手を取り、ふたりは手を繋ぐ。他人と手を繋ぐ機会はなかなかない。穹はアベンチュリンの手をむぎゅむぎゅと握って、手を繋いだ感覚をなじませつつ、首を傾げた。
「これで……いいのか?」
「もっと指を絡ませ合ってもいいね、こんなふうに」
「うわっ」
 互いの指が絡み合うように繋ぎ直され、そしてぎゅうとアベンチュリンに強く握られた。互いの手のひらが重なって相手の熱がより一層感じられる。なんだこれは。この感覚はなんだ。なんだかやっぱりむずかゆい。そんな穹をよそに、アベンチュリンは座っていたベンチから立ち上がった。
「よし、じゃあ今日はこのままデートと行こう!」
「え!? ま、待ってくれ!」
 そのまま手を引かれて穹もベンチを離れた。つまずきそうになりつつ、アベンチュリンと歩き出す。
「デートって、いきなり!?」
「デートって言っても、普段やっていることと変わらないさ。楽しいものを見て、好きなものを食べて、話して笑い合う。ほら、いつもの僕たちだ」
「そ、そう言われてみると確かに……?」
「納得したかな? さあ、行こう」
 アベンチュリンは足取り軽く、穹はしきりに首を傾げながら。対照的なふたりは手を繋ぎながら、きらびやかな街を歩き始めた。

 夢境には彼を連れて行ける。困惑しながらも手を引けば、彼はついてきてくれる。
 けれど眠るとき、夢の世界には彼を連れて行くことはできない。
 悪夢はどこまでも追いかけてくる。追いかけ続けて、追い詰める。ひたりひたりと近づいて、冷たい手で心臓をとらえて離さない。心臓をつぶされることに対する恐怖はない。けれど、かつて目の前で起きた記憶とともに刻まれた痛みと恐怖は今も焼きついて離れない。

「おい、アベンチュリン!」
 穹の声でアベンチュリンは目を覚ました。上体を起こすと、かけられていたタオルケットが床に落ちた。背中や髪はびっしょりと寝汗で濡れている。顔色が悪いぞ、と穹は気遣わしげにこちらを見つめている。
「やっぱり具合悪いのか? 無理して出かけることなかったのに」
 今日も今日とて恋人ごっこに勤しんでいたふたりだったが、途中でアベンチュリンの顔色が悪いことに気づいた穹に宿へと連れて行かれた。そして部屋のソファでうとうととしているうちに眠ってしまっていたらしい。
「このタオルケットは……」
「俺がかけた。風邪引いたらいけないからな。お前、かなりうなされてたぞ。悪い夢でも見たか?」
「そうかもね」
 立ち上がるとふらりと身体が傾ぎ、ソファに再び座ってしまう。
「アベンチュリン!」
「大丈夫だよ。ハハ……情けないね」
 こんな姿を見せたいわけではなかったのだけれど。アベンチュリンの心身は冷え切っている。悪夢の中で冷たい手に心臓がつかまれたまま。彼から視線をそらしてうつむいた。どうかこんな姿を見ないでくれとばかりに。
 じっと見守っていた穹だったが、やがて床に膝をつき、ソファに座るアベンチュリンに声をかけた。
「アベンチュリン。今、大丈夫か?」
「大丈夫……」
 その返事を聞き、穹はおずおずと手を伸ばし、アベンチュリンを抱きしめた。思わぬ行動にアベンチュリンは息をのむ。
「……星核くん?」
「穹って呼ぶんだろ。さっき、ごっこ遊びに了承したんじゃないのか」
 大丈夫か、とは今恋人ごっこをするぞということだったか。反射的に返事をしてしまったため、アベンチュリンとしては準備はできていなかったのだが。ぎゅうと抱きしめられて、アベンチュリンは視線をさまよわせた。
「恋人だったらこういうことするんだろう? お前が教えてくれた。その……大丈夫だ、俺がいるぞ」
 そして部屋には沈黙がおりた。しばらくしても反応のないアベンチュリンに、穹は心配になってきたらしい。あれ、とつぶやいて首を傾げ始めた。
「あ、あれ? 恋人でなくてもするんだっけ? 慰めるときにハグする……は言ってたよな? あれ、でも、こういうときは……あ、ごめん、迷惑だったか」
 穹が離れようとした瞬間、アベンチュリンはすぐさま彼を抱きしめ返した。
「うわっ、びっくりした! 大丈夫か?」
 その声音は優しい。そして体温は熱いほど。悪夢で冷えていた心身は急速に熱を取り戻す。濡れているであろう背中を厭わず、穹は手で優しく撫でてくれる。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫……ありがとう、嬉しいよ、穹」
「それならよかった」
「君は、いい恋人になれるよ、マイフレンド。僕が保証する」
 きっと彼には近いうちに恋人ができるだろう。そして泣き出した恋人をこうして抱きしめてくれるのだろう。その恋人はアベンチュリンではない、他の誰かだ。
(羨ましいね、その相手が。でも)
 今この瞬間、遊びの時間の中では穹はアベンチュリンの恋人だ。誰にも譲れない。けれど終われば他人。所詮は恋人遊戯の中での関係。
 ふと彼の背に爪を立てたくなった。痕をつけて、匂いをつけて、誰のものなのか印をつけて。そんなことをしても、結局ふたりは戯れの関係でしかない。それでもアベンチュリンは彼を離すまいと抱きしめる力を強くした。
 
 今日もまた、恋人遊戯中のふたりはきらびやかな夢の街を行く。
「穹。お手をどうぞ」
 次第にアベンチュリンに穹と呼ばれるのも慣れていった。あれほど落ち着かなかったのに、今は手を繋いで歩くのも、安心できるようになりつつある。互いの指を絡ませるのも違和感がなくなってきており、穹はしみじみとしていた。
(これが慣れ……遊びで重ねた練習の成果か……)
 これなら恋人ができても大丈夫だろうと穹は自信をつけてきていた。もちろんまだハグは恥ずかしいし、キスは本当に恋人ができたときまで取っておいているけれど。そんなことよりも、近頃は別の問題が生じてきている。
「……おっと、もうそろそろ時間だ。楽しい時間はあっという間だね、マイフレンド」
「あ……」
 別れの時間となり、アベンチュリンの手が離れた。彼の感触が、熱が、手から離れていく。穹という呼び方もマイフレンドへと変わる。ごっこ遊びの終わりはいつも余韻なく、あっけない。それを寂しく思うようになったのはいつのことだったか。
「それじゃあ、また会おう」
 そう言って去っていこうとする彼の背中をつい追いかけたくなったのも、いつの頃からだっただろう。
「ま、待ってくれ!」
 ついには今日。
「星核くん?」
「あ……」
 本当に追いかけてアベンチュリンの手をつかんでしまった。驚いた表情の彼と視線が合い、穹は我に返った。何をしているんだ、と思い、慌てて手を振り払う。
「ごめん、アベンチュリン」
「どうしたんだい、星核くん。君らしくもない」
「なんでもない、なんでもないんだ、本当に……」
「そうかい? それじゃあ、また近いうちに会おう」
 そう言って去って行くアベンチュリンの背中を見つめながら、穹は大きなため息をついた。
 一体自分はどうしてしまったんだろう。
 手を繋ぐことも名前も呼ばれることも、この時間がずっと続けばいいと思い始めるなんて。
 アベンチュリンの姿が見えなくなり、穹はぼんやりとしたまま近くのベンチに腰かけた。
「きゃっ」
「わっ」
 そのベンチには先客がいたらしかった。穹の隣にはすでにひとりの女性が座っており、驚いたように彼を見つめていた。どこかで見たことがあるような、と考えていると、彼女の瞳からはぼろぼろと涙が流れていることに気づく。
「あ、ごめんなさい……」
「い、いいえ、私こそ……こんなところに座っていたから……私なんかが……!」
 そして手で顔を覆った彼女はわっと泣き出した。道行く人々の視線が一気に集中する。穹は慌てて彼女に声をかけた。出会ったばかりの女性を抱きしめるのはさすがにまずい。とりあえずこういうときは。
「どうしたんだ! 俺でよければ話を聞くけど!」
「本当に……? 私なんかの話を……? いいの……?」
 女性は泣き止み、穹の方を向いた。ひとまずは騒ぎを収めることには成功したようだ。穹はほっとひと息をついた。
 話によると、女性には思う人がいるらしかった。
「黄金の刻で出会ってね、私たちはすぐ仲良くなったわ。毎日のように手を繋いで出かけて、笑い合って、次第に抱きしめ合ってキスをして……このベンチでよく談笑もしたわ」
 そういえば彼女をここで見かけたことがある気がした。穹が憧れる、幸せそうな恋人のうちの一組なのかもしれない。
「ふふっ、恋人に見えた? そうだったら本当によかったのにね……」
「どういうことだ?」
「恋人ではないのよ、私たち。ただ流れるままに手を繋いで、抱きしめ合って、キスをして……はっきりと彼から好意を告げられたことはなかったの。私はずっと好きだったけれど……あの人にとって私は都合のいい女のひとりでしかなかったの」
「なんでそんなことを言うんだ?」
「だってあの人が言ったのよ。お前はそもそも恋人じゃないって。都合のいい女でしかないんだって、つけあがるなって」
「そんなことを……」
「ひどいでしょう? 離れようと思ったのに、離れられないの、私は彼が好きだから……。私はどんな形であっても彼のそばにいたいから……。彼もそれを知ってて私に連絡をよこすの。だんだんとそんな自分が情けなくなって、泣いていたの」
「そうだったのか……」
「ねえ、あなたには恋人がいる? いつも一緒に歩いている金髪の彼は、恋人?」
「俺たちを見たことがあるのか?」
「ええ、いつもこの辺りを歩いているでしょう? 理想の恋人だと思っていたのだけれど」
 理想の恋人。そう見えていたのか。けれどふたりは恋人じゃない。穹は首を横に振った。
「恋人ごっこをしているだけの、ただの友達だ」
「恋人ごっこ……そうなの……。いつも楽しそうに笑い合っていて、うらやましく思っていたのよ。あんなふうにいたかったって……。私なんて、離れてしまえば恋人でもなんでもない関係で、いいえ、一緒にいても私の片思いでしかない。遊びの関係なのに、って」
「それは……俺も、俺も……?」
 無意識に口をついて出た言葉に穹は首を傾げた。何が俺も、なのだろう。
 遊びの関係といっても、彼女と自分とでは意味合いが異なる。彼女は本気で彼に恋をしているが、自分はアベンチュリンに恋などしていない。恋人ごっこという遊びができる程度の友達だ。けれど近頃の自分はどうなのだろう。彼が呼ぶ名前と繋いだ手から離れがたいと思うようになっている。それは友達という関係で済む話なのだろうか。この感情は何なのだろう。この女性は答えを知っているだろうか。
「彼と離れるとき、私がどう思っているのかって? ふふ、もちろん離れたくないと思っているわ。ずっとこの時間が続けばいいって」
 同じだ。
「じゃあなって言って手をあっけなく離す彼が憎たらしくて、悲しくて寂しくて、それでも好きで」
 同じだ。
「すがりついたらきっと嫌われるから離れるの。もう、どうしたって彼が好きなのね、私」
「俺も……そうなのかも……しれない」
 アベンチュリンから離れがたいと思っている。ずっと名前を呼んで欲しい、手を離さないでほしい、去り行くその背を追いかけてしまいたくなる。この感情はきっと彼女が相手に抱くものと同じ。
 穹が答えに行き着き、女性は憐れむような表情を浮かべた。
「あなたは金髪の彼が好きなのね」
「そう、なのかも」
「恋人になりたい?」
「わからない……」
「彼と一緒に歩いて、笑い合って、抱きしめ合って、キスがしたい?」
「わからない、でも、離れたくない。……でも、アベンチュリンは俺とごっこ遊びをしているだけで、アベンチュリンには付き合ってもらってるだけで……アベンチュリンは経験があるらしいから……」
 ああそうだ、彼ほどの人なら。こんな可能性があることに気づかなかった。
「本当はもう恋人がいるのかも……だとしたら……その人に申し訳ないな……」
 自分は彼のことが本当に好きかもしれない。
 彼には本当の恋人がいるのかもしれない。
 自分ではない誰かのための時間を自分が奪っているのかもしれない。
 そんな状況の中で今まで通りに恋人遊戯を続けられるかなんて、無理な話だ。笑顔なんて浮かべられない。
「それならもう、終わりにしたいな……」
 遊びが遊びじゃなくなったら終わりなのだから。
 うつむいた穹の頭を女性は慰めるように撫でてくれる。どこまでも優しい手は、求めている彼のものは違うけれど、今の穹には心地よかった。次第に視界がぼやけていく。
 彼のことが好きだと思う。
 だから今日で遊びは終わりだ。
 早く言わないと。
 ぼんやりとした穹の視界の隅に、彼の姿が見えた気がしたのは、彼を恋しく思うが故の見間違いだっただろうか。

 今日のふたりは現実のホテル・レバリーにいた。アベンチュリンが取っておいたという部屋に入り、ソファに腰かけて談笑中である。とはいえ穹はうつむいて、なかなかアベンチュリンに視線を向けられない。
 言わないと、早く言わないと、もう終わりでいいと言わないと。焦るほどにタイミングを見失い、視線は下がっていく。いつもと様子が違う穹にアベンチュリンも気づいたらしい。
「星核くん? 今日は浮かない顔をしているね。やっぱりビジネスの話は君には合わないかな?」
「あ……ごめん……そういうわけじゃない……」
「それと、今の君は、僕に言いたいことがある顔をしている。どうしたんだい? 話を聞こう」
 優しい笑みとやわらかな声音に緊張がほぐれる。今を逃したらきっともう言う機会を全て失う気がした。ゆっくりでいいと言われながら穹は口を開いた。
「もう、恋人ごっこはやめたい」
「おや……もういいのかい?」
「いい。もういらない。十分だ」
「そう……。ごっこ遊びをやめて、君はどうしたいんだい?」
「え?」
「本当に恋人を作る? 作るとして、相手に目星はつけているのかい? 好きな人がいる?」
「ええと……」
 名前を呼ばれたい人がいる。離れがたい熱を持つ人がいる。その人と過ごす時間は楽しく、ずっと続いてほしいと思っている。そんな感情を抱く相手を、世間一般で何と呼ぶのか、穹にはもうわかっている。
「いる……」
 穹の返答にアベンチュリンが息を呑んだ。穹はうつむいたまま、好きなんだ、とつぶやいた。
「恋人がいるかもしれないけど、どうしても好きで、そんな状況で恋人ごっこなんて遊びできない、したくない、だから」
「穹」
「え……」
 どうしてここで名前を呼ぶんだろう。恋人ごっこは終わりだと言ったのに。顔を上げた直後、穹は正面からアベンチュリンに抱きしめられた。痛いほどに、優しくなんかなくて、離すものかと強く。彼の香水の匂いがより一層強く感じられた。
「君が好きなのは、あの女性かな? この前ベンチで話をしていたね。頭も撫でられていたっけ」
 それはこの前のことだろうか。女性とはお互い話を聞き合って慰め合っただけの仲だ。
「お互い不幸な片思いをしている仲間だよ」
 そう説明すれば、アベンチュリンは抱きしめる力を緩めてくれる。彼がゆっくりと離れていき、ふたりの視線がぶつかる。穹はアベンチュリンの瞳が翳り、揺れていることに気がついた。
「なんで、そんな目をしているんだ、アベンチュリン」
「なんでだろうね? 君がそうさせたと言ったら、どうする?」
「……俺が?」
 首を傾げる穹に、アベンチュリンがもう一度抱きついてきた。ため息とともに聞こえてきたのは弱々しいつぶやきだ。
「……終わりにしたくない。僕はずっと君と恋人ごっこを続けたい」
 そのつぶやきに対して穹は首を横に振る。
「俺は、嫌だ」
 楽しいままなら続けられた。けれどもうそんな段階もとうに終わっている。遊びのままでは終わりの時間が来れば彼は離れてしまう。そして彼は本当にいるべきひとのもとに戻るだろう。そのひとは自分以外の誰か。その誰かが彼と手を繋いで、キスをしている。見たくない。考えたくない。このまま続けるのは限界だ。
 穹の返答にアベンチュリンはうなだれた。
「もう僕から離れたいってことかな……」
「違う」
 そんなわけがない、と穹はアベンチュリンを抱きしめ返す。
「俺はアベンチュリンと離れたくなんかない。誰にもこの熱は渡さない」
 抱きしめる腕の力が強くなり、アベンチュリンの身体がわずかに震えた。渡すものか、と思いつつも、穹は視線を落とす。彼ほどの人にはきっといるだろう。
「でも、お前に恋人とか好きな人がいるなら……頑張って俺はお前を忘れるよ」
「……うん?」
 ぎゅうぎゅうと穹に抱きしめられながら、今度はアベンチュリンが首を傾げた。
「君は、好きな人がいるんじゃないのかい? でも今、僕は君に熱烈に口説かれたような気がするんだけど、気のせいかな?」
 穹はむっとして、抱きしめる腕により一層力を込める。
「好きだよ、お前のことが。離れがたいくらい、誰にも渡したくないくらい」
「え……?」
「でもお前は他に好きな人がいるんだろう? もしくはもう恋人がいる。お前ほどの人ならいても仕方ないよな……」
「い、いやいや、待ってくれ星核くん! 一旦お互い落ち着こう」
 そんなアベンチュリンの言葉に従い、ふたりはとりあえず抱きしめ合うのをやめて、ソファに座り直した。何度か深呼吸をして、頭を切り替えて、再開である。
「状況を整理しよう。君は僕が好き」
「好きだ」
「ありがとう、嬉しいよ。そして僕は君が好き」
「え?」
「さらに僕には今恋人はいない」
「え?」
「そして恋人にするなら君がいいと思っている。質問はあるかい?」
「え? いないのか?」
「そうだよ」
「お前は俺が好きなのか?」
「そうだよ」
「いわゆる両思いってやつなのか?」
「そうだね」
 じゃあ僕の方から質問だ、というアベンチュリンの言葉に、穹は目を瞬かせた。
「僕の恋人になってくれるかい?」
 手を繋いで、笑い合って、たまに抱きしめ合って、ときにキスを交わしてくれる仲になってくれる?
 その言葉を受けて、穹は勢いよくアベンチュリンに抱きついた。顔に満面の笑みを浮かべながら。
「名前を呼んで、手を離さないでいてくれるなら!」
 こうしてふたりの恋人ごっこは終わりを迎えたのだった。

『もうあなたとは会いません。さようなら』
 ずっと好きだった相手に別れのメッセージを送った。
 灰色の少年と話した後に部屋に戻り、泣いて泣いて泣き疲れて寝て起きたら、自分でも驚くぐらい彼への想いが落ち着いていた。
 こんな関係を続けていたらいけない。恋をするなら彼らのように、心から笑顔でいられる恋愛がいい。そう思い直したのだ。
 ふと女性は通りを仲良く歩くふたりに目を留めた。金髪の青年と灰色の少年が手を繋ぎ、笑い合っている。ふたりは恋人同士なのだろう。とても幸せそうだった。
「よかったわ、あなたの恋が実って、ふたりとも幸せそうで」
 私も素敵な相手と出会いたいな。女性は急に通知が鳴り止まなくなったスマホの電源を切り、腰かけていたベンチから立ち上がった。

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