好きという言葉に、一体何の意味がある?
(だるい……疲れた……)
情事後の気だるさ残る微睡の中、穹は目を閉じて物思いに耽っていた。久々の逢瀬となれば『恋人』である彼はなかなか手放してはくれないから、少々疲れる。それは君を愛おしく思うからだと毎度囁かれ、歓喜で高鳴る胸を毎度たしなめる。言葉だけなら何とでも言えるのだから。
情交の際、何度でも彼はかわいいと言ってくれる。好きと言ってくれる。離れたくないと言ってくれる。だがそれは何のために? 目は口ほどに物を言うと言うけれど、彼の瞳をのぞいてもわからない。言葉しか判断材料はない。ただ彼は言葉と心が一致しない人物だと穹は知っている。
だから穹は気づいている。
(アベンチュリンが俺を好きだと言うのは、俺のことが好きだから、じゃない)
ふと髪を触れられた感触があった。目を開ければアベンチュリンと視線が合う。ベッドに腰を下ろし、穹の髪を撫でていた。
「何……?」
「おや、起こしたかな」
おはようと言ってアベンチュリンは穹の額に口づけを落とす。くすぐったくてキスをされた箇所を手でこすりたくなったが、だるくて身体を動かす気にならない。代わりに顔をしかめてみせれば、苦笑した彼にもう一度キスをされた。
軽いな、と思う。キスというのはもっとキラキラとしていて、特別なものだと穹は思っていた。それは違うのだと教えたのはアベンチュリンだ。
好きだと告げられて、両思いなのだとわかったとき。そのまま満ち足りた気持ちでキスをされたとき。あのときが間違いなく一番幸せだった。
抱かれた後に聞いた彼の言葉で気づいたのだ。ああ、これが目的だったのかと。全てを捧げて気づいたのだ。すっかり騙されたのだと。
(結局俺の片思いでしかないんだ、でも)
それでも彼が好きだという気持ちは変わらない。自分はなんて馬鹿なのだろう。ずるずると関係を続けて。
穹、と呼ばれた。何をされるのかすぐにわかった。顔を背けようとするがアベンチュリンはそれを許さない。手は髪から頬へ。互いの距離が再びゼロになる。頑なに口を閉じようとしても、隙間からこじ開けられ、互いの舌が絡む。呼吸を奪い合う。喰らい合うように口づけを交わす。そんな中で彼は再び囁く。
「好きだよ」
「知ってる」
これで何度目だろう。
こんな虚しいやり取りは。
「……好き」
「知ってる。言わなくても、十分すぎるくらい知ってるよ」
まるで愛おしい恋人を抱きしめるかのよう。そんな演技上手な彼の背中に手を回す。大丈夫。知っている。両思いだと勘違いするほど自分は愚かじゃない。
「知ってるよ、アベンチュリン」
お前が俺を好きだと、心にもないことを言うのは、俺を抱きたいだけだからって。
「あらあら、なんだかこじれた恋人関係ですねえ」
穹の話を聞いた女性はため息をこぼした。依頼の納品後、依頼人である彼女とともにお茶会を始めてから、一システム時間が経とうとしている。まあ、今日はのんびりしましょうよ、という言葉に甘えてこうしてお茶とお菓子をご馳走になっているわけである。
でもまあ、と女性はお茶をすすりながら口を開く。
「その方、本当にあなたのことが好きかもしれませんよ?」
「まさか……そんなわけない」
穹は首を横に振った。
『彼の心が欲しいわけじゃない』
『いらない。身体だけで十分だ』
結ばれた日に確かにこの耳で彼の言葉を聞いた。そして穹は言った。
『身体だけで十分……?』
『ごめん……勘違いしてた……俺、浮かれてた』
『……嘘つき』
それ以来、アベンチュリンは何かと好意を口にしてくる。本気の瞳と声音で思いを届けようとしてくる。そのたびに心臓ははねる。けれど本気にしてはいけないのだと自らを戒める。その繰り返しだ。
正直なところ疲れている。思い悩みながら彼との関係を続けるのは身も心も消耗する。早くけじめをつけて終わりにしたいとも思う。だが終わりにする前に、はっきりとさせておきたいことがある。
「……アベンチュリンが俺のこと、本当に好きだっていう証明ができるものがあったらな」
「ありますよ?」
「え?」
思わぬ答えに呆然としている穹をよそに、女性はくるりと背を向けて荷物箱を漁り始める。
「ちょうど仕入れたんですよね、愛の証明ができる秘薬が。えーと、あ! あったあった、これですこれ!」
じゃじゃーん、という明るい声とともに出てきたのは、青色の液体が入ったガラスの小瓶だった。
「知る人ぞ知る愛の秘薬『ハルフゥ』です。いつもお世話になっているナナシビトのおにいさんに、今回特別にプレゼントしちゃいます」
「あ、ありがとう?」
「いえいえ」
「それで……どうやって使うんだ?」
「あ、じゃあ説明していきますね」
そう言って彼女は説明書らしき紙を広げた。
「えーと、まずは小瓶に入った薬を飲みます。以上です」
「簡単だな……」
「はい! とっても簡単です! さ! ぐいっといきましょう!」
言われるがままに穹は小瓶の栓を抜いて、薬を一気に飲み干した。甘い甘い果実の味にほっとしていたのも束の間、突然喉が焼けるように熱くなった。そして熱した鉄棒で口の中や喉を無茶苦茶にかき混ぜられるような感覚が穹を襲った。訪れた激しい痛みに喉を掻きむしるが、悲鳴は上がらない。上げようにも上がる気配がない。徐々に痛みも熱も引いていくが、呼吸音だけが響いて、声は出ない。どういうことだと穹は女性の方を向く。
「声が出ませんよね? うふふ、実はそういう薬なんです」
なんてものを飲ませるんだ、と叫ぼうにもやはり声は出ない。これは愛の力で治せるんですよ、と女性は穹に近づき、彼の唇を指でつついた。
「声を使わずに、相手に好きだと伝えてみてください。相手も好きだと言ってくれてそれが本心だったら大成功。ふたりの愛の力でこの薬の効果が切れて、声が出るようになります」
ね、愛の証明になるでしょう?
「まあ、メッセージは使えますから、難易度はだいぶ下がってますし、そんな顔しなくても大丈夫ですよ」
女性は心底楽しそうに笑った。
「さてさて、やっぱり片思いか、実はずっと両思いだったのか、どっちなんでしょうね?」
(僕が君を好きだと言うのは、君のことが好きだから、なのに)
キスというのは交わすほどに愛を確かめられると思っていた。だが彼との関係においては、交わすほどに愛は伝わらないものなのだと思い知らされることとなった。
彼に好きだと告げて、両思いなのだとわかったとき。そのまま満ち足りた気持ちでキスをしたとき。あのときが間違いなく一番幸せだった。
しかし幸福に満ち足りた心理状態に不慣れで懐疑的な自分は、確かな感触が欲しくなった。手っ取り早く彼を腕の中に収めて、彼が自分のものであるという証が欲しくなった。
性急ながらなんとか彼をなだめて口説き落とし、早々とその夜を迎えた。その日は触れて求めてやがて最奥で果てた。
そして満ち足りた時間を過ごしたのちに、彼がシャワーを浴びてくると席を立ったときのこと。ひとりきりでベッドで寝転がっていると、どこからか嘲笑ともにささやきが聞こえてきた。
『おめでとう。そしてかわいそうに』
『……何がだ』
『お前たちのことさ。これでお前に騙されたかわいそうな人間が増えたなあ? そしてお前を裏切る人間が増えたわけだ』
『彼はそんなひとじゃない』
『そう信じたいだけだろう? 本当は不安で不安で仕方がないくせに。さあさあ、あとはあの子から何を奪ったらお前は安心できる?』
『これでもう満足だ』
『うそうそ、純情ぶるな、聖人ぶるな、結局お前は強欲だ。すべて自分のものにしないと安心できないくせに。さあこれ以上、彼の何を望む?』
『もう何もいらない』
『まだあの子のところに大半残っている心か? ダメダメ、そんなものまで欲しがって、身も心も全て洗脳をしたいのか? お前は何もあの子にあげていないのにそんなことを思うのは不公平だよなあ』
『違う』
『知っているだろう? 心は誰のものにもならない。お前の心だって誰のものにもなれない。それなのにあの子に望んでどうする? 開拓の道を行く自由な心は誰にも奪えないさ』
『彼の心が欲しいわけじゃない』
『強がらなくてもいいのに。何もかも奪いたいくせに! お前はすべてを手にする! 快楽に身を溺れさせて、心も浸食してすべてを満たしたいくせに!』
『いらない。身体だけで十分だ』
『本心が出たなあ? ひとの繋ぎとめ方をお前は知らない。贈り続け、関係を続け、身体を縛りつければ繋ぎとめられると思っているのか? アッハッハ、だめだなあ、心の声は自分の中に閉まっておかなくちゃ。いつどこで誰がどう聞いているかわからないんだから。ああ、あの子が聞いたらどう思うんだろうなあ、この声はお前にしか届いていないのに』
『え……』
唐突にささやきは止み、浴室に続くドアの方へと視線をやった。そこには呆然とした表情の彼が立ち尽くしていた。彼の瞳は雄弁だ。その琥珀はひび割れ、輝きを失っていた。やがてつぶやかれた言葉は。
『身体だけで十分……?』
『ごめん……勘違いしてた……俺、浮かれてた』
『……嘘つき』
こうして束の間の幸せな時間は終わりを告げた。
けれど諦めの悪い自分は、恋人関係を続けた。関係を続けなければ彼を繋ぎとめられない。好意は信じてもらえない。
何度も彼への好意を口にする。許しを乞うかのように何度でも。やり直しの機会を与えてほしいとばかりに何度でも。ただ純粋に君が好きなのだと伝えたくて。
「好きだよ」
「知ってる」
これで何度目だろう。
こんな虚しいやり取りは。
「……好き」
「知ってる。言わなくても、十分すぎるくらい知ってるよ」
愛おしい恋人を抱きしめる。こちらの言葉は彼のもとには留まらず、その心には決して響かない。それでも時折琥珀は揺れる。だが最後には彼は目を閉じて拒絶するのだ。
「知ってるよ、アベンチュリン」
誤解だ、違う、心の底から君を求めて、君を愛している。この気持ちは本物だ。嘘偽りないものだ。
けれど何をもってこの愛を証明できる?
どうしたら信じてもらえるのか。答えは出ないまま今日も伝え続ける。
(何度だって言うよ、僕は君が好きなんだ)
そんなことを繰り返していたある日、彼からメッセージが届いた。
『急にごめん。今から会えないか?』
『大丈夫だけど、どうしたんだい?』
『いろいろあって。会ってから話す。人の少ないところで会いたい』
『わかった。いつもの部屋を取っておくよ』
メッセージを打ち終えてスマホをしまい、アベンチュリンはホテルへと向かう。
彼から会いたいだなんて、珍しいこともあるものだ。会いたいと誘うのはいつもこちらばかり。あちらから誘うのはめったにない。一体何があったんだろうか。メッセージでは言えない大事な話をされるのだろうか。
(まさか、別れたいと言われるんだろうか)
そんな考えが頭をよぎる。彼が自分のもとから離れていく。そんなことを考えるだけで手先から全身が冷えていく気がした。離れていくならばいっそ、と思ったが、そんな感情を彼にぶつけるわけにはいかない。彼を思うならば身を引かなければ、でも、と感情と理性がぶつかり合って考えはまとまらない。
(せめて君が好きだと信じてくれたら、けじめをつけられるのかもしれないのに)
ホテルはたまたまキャンセルが出ており、すんなりと部屋の予約ができた。通された一室でアベンチュリンが物思いに耽っていれば、ひかえめなノック音が響く。ドアを開けると愛しい恋人が立っていた。
「やあ、星核くん。今朝ぶりだね」
口元に笑みをのせて、アベンチュリンは努めて明るい声を出す。しかし穹は部屋に入ることなく黙ったまま、気まずげに視線を足元の方へと落とした。嫌な予感がする。やはり今日、別れ話を切り出されるのだろうか。
そんなことを考えていると、穹はおもむろにスマホを出してメッセージを打ち始めた。直後にアベンチュリンのスマホの通知が鳴った。画面を見れば彼からのメッセージが届いていた。どうして目の前にいるのにメッセージを、と思っていると、見てくれとばかりに穹がスマホを指をさすので確認してみると。
『俺、今声が出ないんだ』
「え?」
驚いた声とともにアベンチュリンが顔を上げ、穹の顔をまじまじと見た。穹は苦笑いを浮かべ、ご、め、ん、と言うかのように口を動かした。
彼を部屋に入れてソファに腰を下ろす。そして穹はスマホのメッセージでアベンチュリンに事情を説明した。勧められた薬を飲んで声が出なくなった、というメッセージに、アベンチュリンは呆れ顔である。
「君……どうしてそんなものを口に入れたんだい……声が出なくなる薬なんて劇薬じゃないか」
『いろいろあって、つい』
「いろいろ……ね。それで、僕に助けを求めに来たのかい」
『そうだ』
「頼られるのは嬉しいけれど、さすがに僕の専門外じゃないかな。どうして僕に?」
純粋な疑問をぶつけると、穹は視線をさまよわせる。むしろ博識な教授の方が答えを知っている気がするのだが、なぜ自分なのか。彼は逡巡したのちにメッセージを打つ。
『お前じゃなきゃだめなんだ』
『これは俺の好きな人じゃないと薬の効果が切れないんだ』
『お前が好きだよ、アベンチュリン』
『頼む。俺に好きって言ってくれ』
「え……」
アベンチュリンは目を瞬かせる。好意が伝わったのだろうか、彼にようやく通じたのだろうか。
『お前が好きだよ、アベンチュリン』
その言葉にじわりじわりと温かさが胸を満たしていく。唇が震える。僕も、と思いを口にしようとしたが、穹からのメッセージは止まらない。
『俺のことを好きじゃなくったっていいから、嘘でいいから、好きって言って』
「……へえ?」
アベンチュリンの瞳は冷え冷えとしたものに変わる。結局、彼にはこちらの思いは通じていなかったのか。どれほど真剣に伝えても、彼は結局目を閉じるのか。
「……なるほど。結局、僕の片思いだったみたいだ」
そうつぶやいてアベンチュリンは穹の手からスマホを奪い、それをベッドへと放り投げた。そちらに視線がそれた穹をソファに押し倒して、アベンチュリンは彼の唇を奪う。暴れようとする手首を掴んで強引に大人しくさせる。
ああ、どうして信じてくれないんだろうか。
こんなにも好きなのに、こんなにも近いのに、こんなにも伝えているのに、どうして届かないのだろう。
あとは何を奪ったら彼は自分のものになってくれるのだろう。
苦しげな彼の呼吸が耳に入り、アベンチュリンは気づいた。穹の琥珀の瞳はすっかり怯えている。そこでアベンチュリンは我に返った。こんな力尽くで奪い、縛りつけようとしたところで、彼は手に入るどころか離れるばかりだ。ごめん、と言ってアベンチュリンは穹から離れる。ふらついた足取りでベッドに腰を下ろし、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……ちょっとどうかしてたみたいだ。ハハ……ごめん」
ため息とともにアベンチュリンは視線を落とした。
「……ごめん、こんなことしたって、君が振り向いてくれるわけでもないのに。嫌いになってくれていいよ、こんな僕を」
でも、ぼくはきみがすきだよ、ほんとうに、すきだ。
弱りきった声での告白に、穹は目を丸くした。そして穹は口を動かす。やがて聞こえてきたのは。
「お、れも……す、き……」
穹の声だった。穹もアベンチュリンも驚いたように顔を上げる。
「星核くん? 今……」
「……アベンチュリン!」
ソファから立ち上がった穹はアベンチュリンの方へと駆け寄って彼に抱きついた。ふたりしてベッドに倒れ込む。アベンチュリンを押し倒すような体勢のまま穹は今まで出せなかった言葉を口にしていく。
「信じなくて、ごめん。聞かなくてごめん、お前はずっと好きだって言ってくれてたのに、聞かなくて、ごめん……!」
「いいよ、謝らないで」
泣きそうな声の穹の背中をアベンチュリンは優しく撫でる。そして安心させるようにアベンチュリンからも穹を抱きしめてやる。
「謝らないで、好きって言って」
今まで言ってくれなかった分を僕に伝えてよ。
「好き」
「うん」
「……好き、だ」
「うんうん」
「す……も、もういいだろ!」
何回言わせるんだ! とテーブルを叩いて席を立とうとする穹を、まあまあ、とアベンチュリンはなだめる。再び椅子に座らせて、もう一度彼からの言葉を催促する。
「今日の分はまだ足りてないよ? さあ、心を込めて言ってほしいな!」
「もうなんか借金払わされてる気分なんだけどな!? そんな感じで好きって言われて嬉しいか!?」
「そう言いつつも、君はきちんと一回一回心を込めて言ってくれるからね、嬉しいよ?」
「くっ……本当に嬉しそうだ……っ! 好きって言いすぎて羞恥で走り去ってしまいたい気分だぞこっちは!」
「それなら僕から君に好きって言ってあげようか? たっぷり、僕の気が済むまで」
「しっかり言わせていただきます!」
「それは残念」
僕から君に伝えたい言葉はまだまだあるんだよ、とアベンチュリンは笑う。
「愛してる、ずっとそばにいて、とかね? 君もそう思ってくれてるなら、嬉しいな」
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