思えばろくなキスをしていない。
昼下がりの魔法舎にて、北の魔法使いのお茶会は始まった。参加者はミスラ、今日は気が向いたオーエン、今日も逃げ遅れたブラッドリーである。
三人は紅茶を淹れてから気づいた。茶菓子がないのである。今日に限って誰も菓子を持っていない。さてどうするか。話し合う間もなく、むらっときたなとミスラが言い出し、場に緊張が走ったところで、袋を抱えた賢者が現れた。
「おう賢者、ちょうどよかった。なんか菓子持ってねえか」
「え?」
「茶菓子がないんですよ」
「茶菓子ですか、えっと、キャンディーなら……」
「へえ、いいもの持ってるね。それちょうだい」
「でもこれは、ちょっと……」
「くれないの? ひとりじめするつもり?」
「いや、まさか」
「そういや、昨日の討伐任務の報酬を山分けする話だったよな?」
「そうでしたっけ」
「口裏を合わせなよ。今回はそれで手を打ってあげるから」
「あの、でも」
「まあ、とりあえずいただきます」
何やらためらう賢者からミスラが袋を取り上げた。その中からキャンディーが入っている瓶を取り出す。赤に緑にピンクに黄色。色とりどりのキャンディーが瓶いっぱいに詰め込まれている。開ける前に、ミスラは瓶に書かれた文字に気づいた。
「何か書いてるな……。魔女特製キャンディー、あまずっぱい、くちづけの味……?」
「……なんだそれ」
「うわ……」
「賢者様の趣味ですか」
「違います、昨日の依頼者からの貰い物です……」
賢者はうなだれながら答えた。このキャンディーをどうしたらいいのかわからず、袋を片手におろおろとしていたそうだ。
昨日は北の国での討伐任務だった。依頼者である魔女が飼っていたペットが、何らかの原因で手がつけられない怪物となってしまったという。
討伐は順調に進んでいたが、最後の最後に怪物は飼い主へと牙を剥いた。たまたま近くにいた賢者は咄嗟に魔女の前に出た。今思えば大変危険な行為である。魔法使いたちのおかげでなんとか無事に済んだが、怪我の一つや二つ、最悪命を落とすことにもなりかねなかった。
だが、魔女からすれば弱き人間が自分のために命をかけたということになる。それが魔女の心にぽっと火を灯してしまったらしい。魔女はいたく感激し、報酬の他、賢者個人に熱烈な口説き文句とキャンディーを贈ってきたのだという。
「『このキャンディーをよく味わってからまたいらして。そのときには答え合わせをしましょう』と言われまして……。それを思い出すと、食べるのはちょっと……」
「気にせず食べればいいんじゃないですか。そもそもキスに味なんてないでしょう」
そう言ってミスラは蓋を開けてキャンディーをひとつ取り出し、ガリガリと音を立てて噛み砕いていく。砕き終えてはキャンディーを口に入れて、ということを繰り返していたが、ふと何かを思い出したようにつぶやく。
「味はあったような。確か昨日オーエンと」
「ちょっと」
「おいミスラ、ひとりだけ食べてないで瓶をこっちに寄越せ。賢者はキッチンから茶菓子持ってこい。飴玉ひとつふたつじゃ物足りねえからな。スイートポテトでもくすねてこい」
とんでもないことを言いかけたミスラの発言を遮ってブラッドリーが指示を飛ばす。ミスラはキャンディーが入った瓶をブラッドリーの方へ投げる。賢者は素直に頷いてキッチンへ向かった。
「ほらよ」
ブラッドリーから瓶を受け取り、オーエンはキャンディーをひとつ口の中へ放る。舌で転がしていけば確かに甘酸っぱい果実の味がした。あの魔女は、キスとはこういう味がするものなのだと考えているらしい。
そんなわけがあるか。
顔をしかめ、オーエンはキャンディーを奥歯で噛み砕く。甘酸っぱくなんかあるものか。ミスラとのキスはどれもひどい味ばかりだった。
彼とのキスで一番古いものは北の国で殺し合いをした後のこと。それは鉄の味がした。
負わされた傷の痛みに耐え、血反吐を吐いているオーエンに、何を思ったか急にミスラが唇を重ねてきた。さらに舌まで入れられ、絡められて、息苦しさで、そして屈辱で、目からは涙が出た。
散々弄ばれた後になんのつもりだと問えば、ミスラはしばし首を傾げてからこう言った。
『さあ。したくなったので。ひどい味ですね』
一番新しいのは昨夜のこと。それは苦くて生臭くて、とてもひどい味がした。
想定では苦いと顔をしかめるのはミスラだけのはずだった。まずいと唸る彼を眺めるはずだった。しかし、ミスラがオーエンの隙をついて強引に口づけてきたのだった。単に唇を触れ合わせるだけでは終わらなかった結果、どちらの口の中もひどい味でいっぱいになった。
なんてことをしてくれたのだと責めれば、ミスラは眠たげな瞳をオーエンに向けながらこう言った。
『まあ、したくなったので。はあ、ひどい味だ。これなら血なまぐさい方がましですね』
あとはその前も、と思い返せばキリがないが、ともかくミスラとはろくな口づけをしていない。ひとつくらいましなキスがあればいいのに。鉄の味や生臭い味はもうお断りだ。そうこうしているうちに賢者が戻ってきた。
「お待たせしました。昨日に討伐お疲れ様ということで、お菓子を用意してくれていました。トレスレチェスとスイートポテトです」
「消し炭はないんですか」
「さすがに用意されてなくて……。その、トレスレチェス、食べますか?」
「はあ……。ここが北の国だったらあなたは死んでいます」
そうは言っても食べることにしたらしい。賢者がフォークを渡す前に、ミスラはトレスレチェスを手でつかんで口に突っ込んだ。あわてて賢者がナフキンを取り出しているがすでに遅い。ミスラはまるで気にしていない。マナーのへったくれもない食べ方はいつものこと。指先や口の周りにはクリームがついてしまっている。せっかくの男前が台無しである。
オーエンはトレスレチェスを選んだ。ひとくち食べればクリームの甘みが広がる。やはり甘いものはいい。とびっきり甘いとなおいい。こんな味であれば何度でも味わいたいと思うのに。
ああ、そうか。
またとない機会がめぐってきたじゃないか。
「ミスラ」
呼びかけに応じ、ミスラは素直にオーエンの方へ振り向いた。口の周りはもちろん、頬にまでクリームがついてしまっている。オーエンはミスラへと手を伸ばして頬についたそれを拭ってやった。
「ついてる」
「ありがとうございます」
ミスラは拭ってもなお離れないオーエンの指を不思議そうに見つめている。指は頬から唇へと動き、不意にオーエンの手がミスラの顎をとらえた。自分と同じくトレスレチェスを食べたのだ。彼の口の中はこの上なく甘くなっているに違いない。
次の瞬間、賢者は固まり、ブラッドリーは顔を背けた。
オーエンは一気に距離を詰めてミスラに口付けた。触れただけでは終わらず、舌を隙間からねじ込んで中を探る。予想していた通り、彼の口の中は甘いクリームの味がした。
しばらくミスラはされるがままになっていたが、やがて目を閉じて誘いに応じる。いつしか呼吸を奪い合うようにキスは交わされ始める。
熱烈なそれはオーエンが離れたことで終わりを迎える。互いに息が整ってきたあたりでミスラが尋ねた。
「急に、どうしたんですか」
「別に」
ミスラの口元にまだ残っていたクリームを指で拭って、オーエンは自身の舌にそれを塗りつけた。
「したくなっただけ」
オーエンはそう言ってミスラから離れ、テーブルに向き直る。べたつく指をしっかりと拭いた後にフォークを手に取った。
「はあ、そうですか」
どこか上機嫌なオーエンに首を傾げていたが、それ以上は追及せず、ミスラはトレスレチェスの残りを放り込んだ。ごくんと飲み込んだ後には、テーブルに並べられていた皿を噛み始めた。
しばらく固まっていた賢者が我にかえり、恐る恐るといったふうにブラッドリーに尋ねる。
「あの、ブラッドリー、その、このふたりって……」
「聞くな、見るな、食え。とにかく気にせず食え」
ブラッドリーはそう言って賢者の口にスイートポテトを押し付けた。
皿を噛むミスラ。未だ状況をうまく飲み込めず挙動不審の賢者。呆れ顔のブラッドリー。そんな三者を気にせず、オーエンはクリームをすくって口に運ぶ。
キスの味の記憶を塗り替えられるなら、とびっきり甘いものがいい。そう思っただけだ。
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