本当にどうかしている。
何度こんな夜を過ごしている。
寄り添い合って、重ね合わせて、吐き出して果てて、疲れ切って、ふたりして荒い息をもらして。なぜこんなことを何度も繰り返している。
そもそもなぜ彼はおとなしく押さえつけられているのだろう。こちらに身を預ける理由はなんだ。なぜおまえはいつも弱いふりをしている。こちらの好き勝手を許す。何度なく尋ねているが、いつも彼は首を傾げるだけで何も答えない。
気まぐれか。強者の余裕というものか。油断か。好奇心か。施しか。情か。愛か。
「……馬鹿みたい」
一瞬でもよぎった甘ったるい推測に吐き気がする。愛だなんて。あるわけがない。馬鹿馬鹿しい。気持ちが悪い。
舌打ちをしても自分自身への苛立ちはおさまらず、外へ、ぐったりと力なく倒れている彼へと矛先は向かっていく。眼前には無防備に晒された彼の頸があった。
おまえのせいだ、おまえのせいで、気が狂った考えをしてしまった。衝動のままに目の前の頸に噛みついた。かすかな悲鳴を耳にして苛立ちは消え去り、優越感、高揚感が心を満たした。調子に乗って噛む力を強くしていくと、不意に腕を掴まれた。首から口を離し、噛まれたことへの文句でも言うのかと思い、顔を近づけてみる。だが聞こえてきたのは文句ではなく呪文だった。
「《アルシム》」
その結果、ミスラに掴まれていたオーエンの片腕は派手に吹き飛んだ。
日はのぼって朝。場所は昨夜と変わらずミスラの部屋。オーエンもミスラも渋面をつくっていた。
「最悪な気分。ミスラのせいだ」
オーエンは昨夜吹き飛んだ方の腕をさすっていた。すでに痛みは引いており、くっついて元通りになったが、腕を吹っ飛ばされたという不愉快な事実は変わらない。
「あなたが悪いんですよ。急に噛んだりなんかするから」
隣に座るミスラは頸のあたりを手で押さえている。昨夜オーエンが噛んだ場所だ。顔をしかめているあたり、まだ痛むのだろうか。痛みがある上に眠れなかったのだから、彼も気分は最悪だろう。
「痛くて眠れなくて、気分が最悪なんて、かわいそう」
「ええ、最悪な気分です。気晴らしにあなたを仕留めてもいいんですが、すぐに終わってしまうでしょうから、気晴らしにすらならないですね」
ミスラの言葉に気分を害したオーエンの表情は険しいものに変わる。互いの視線がぶつかり合う。一触即発。ぴりぴりと周囲の空気は張り詰めていく。
「ああ、そういえば」
先に視線を外したのはミスラの方だった。立ち上がって、何やらごそごそと棚のあたりを探り始める。何のつもりかわからないが、ミスラが急に攻撃してきても応じられるように構えていると、ミスラは包みを手に戻ってきて、オーエンに差し出した。戸惑った表情のオーエンを気にすることなく、ミスラはどうぞとそれを押しつけてくる。
「クッキーです。昨日もらったんですよ」
「何、懐柔? 仲直りのつもり?」
「いらないんですか?」
「いる」
オーエンは包みを受け取り、中から出したクッキーをさっそく食べることにする。ミルクの味は濃く、思っていたより甘さは控えめだった。
「あんまり甘くない」
「そうですか?」
「クリームたくさんつければちょうどよさそう。たっぷり塗って、重ねて……ちょっと、勝手に取らないで」
「もともとは俺のですよ」
ミスラがオーエンの手元からクッキーをひとつ取って口に入れる。
「十分甘いんじゃないですか」
「これじゃ全然足りない。もっともっと甘い方がいい。その方が好き」
そうは言いつつもオーエンは食べるのをやめない。ミスラは隣に座り直してその様子を眺めていたが、ふと思い出したかのようにまた口を開いた。
「甘かったですか?」
「クッキーの話ならさっきしたでしょ」
「いえ、俺の首の話です。昨日噛んだじゃないですか」
その言葉にオーエンの手が止まったが、ミスラはさらに言葉を続ける。
「どうだったんですか。甘いと思ったから噛んだんじゃないんですか。そもそもなんで噛んだんですか」
「忘れたよ」
主導権を握ることが許されている理由が、愛されているからだと一瞬でも考えた。そんな自分が許せなくて、苛立ちを彼に向けた。たまたま目の前にあった彼の首に噛みついた。八つ当たりである。説明するならばこうなる。どう言葉を選んでも格好がつかない。口が裂けても言うものかという気持ちになる。その後の返答のないオーエンからふいとミスラは視線を外した。
「まあ、いいですけど」
「いいの?」
「よくはないですけど、これ以上待つのも面倒なので。次やったら両腕を吹っ飛ばします」
そんなものでいいのかと逆にオーエンは困惑する。これまで何度となく殺されてきた身からすれば恐怖ですらある。
「あの北のミスラがずいぶんと丸くなったね。前はそんなに甘くなかったのに」
「あなたは甘いのが好きなんでしょう。ちょうどいいんじゃないですか」
「おまえが甘くても嬉しくないよ」
ミスラは再びクッキーを取ろうとする。手を伸ばそうとしたそれが最後の一個だと気づいて、出した手を引っ込めた。以前なら気にせずに取っただろうに、オーエンに譲るかのような行動に出ている。
「ほんと、甘くなったね、おまえは」
かつての彼の姿を思い浮かべながら、オーエンはクッキーを手に取って口に放り込んだ。譲られた最後の一個もやはり甘くなかった。
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