その瞬間、単なる紙切れに過ぎないそれは、自分が得るべきものだと思ったのだ。
何のつもりかわからないが、今日の彼はずいぶんと食い下がってくる。その手に握られている紙切れは一体なんだ。呪符か。魔法陣でも書かれているのか。いずれにせよ今日は彼に付き合う気はない。
「オーエン」
「行かないよ」
何度呼びかけられても応じず、誘いには乗らないことを伝えてオーエンは姿を消した。しかし、姿を消そうとも撒こうともミスラはなおも追いかけてきた。今日は彼の誘いを受けまいと決めていた。昨日半殺しにされたばかりだからである。
茶に誘われ、返答をする前に、むらっときたのでと不意打ちを喰らった。あまりの理不尽な襲撃になすすべもなかった。そんなことがあっての翌日だ。断るのも、警戒するのも仕方がないことだろう。
追いかけっこが終了するまではずいぶんとかかった。いつになく執拗な追跡をなんとか撒いた頃には、オーエンはすっかり疲れ切っていた。疲れを癒すべく、食堂へと向かうとすでに先客がいた。ネロとリケである。
「ん? あんたも来たのか。リケのと同じのでいいならすぐ出せるんだが」
リケの前にはケーキが一切れ。白いクリームがたっぷりのったスポンジケーキ。トレスレチェスだ。それならばいいだろうとオーエンはうなずき、リケの向かいへと座る。ふと彼の方を見やれば、何やら拗ねた表情でケーキを口に運んでいた。何かあったのだろうか。その疑問についてはネロが代わりに答えた。
「ミスラに負けたんだとさ」
「ミスラに?」
オーエンは差し出されたケーキを受け取りながら聞き返した。負けたという話が出たということは彼と戦ったということだろうか。無謀なことを、とオーエンは呆れ返る。
「あいつと戦うなんて命知らずにも程があるんじゃない」
そんなオーエンに違いますとリケが答える。
「くじ引きで、です。戦ったわけではありません」
「くじ引き?」
「賢者さんがもらった招待券が欲しかったらしくてな」
先日の依頼の報酬として、賢者はケーキ店の特別招待券をもらったという。その店は開店したばかりで、店主はなかなか客が来ないことを気にしているらしい。依頼主は友人の店に行ってくれないかとそれを渡してきた。その招待券を持っていくとケーキのコースを食べられるとのことである。味は保証するので行ってほしい、そして宣伝もしてほしい。新たな依頼を受けたかのようだと賢者は話していた。
賢者はともに依頼を受けた魔法使いたちに招待券を譲ることにした。意外と欲しがる魔法使いが多く、公平にくじ引きで決めることとなったという。
「引けていたらミチルと行くつもりだったんです」
悔しさをにじませながらリケは言い、ケーキを一切れ、二切れと口に運んだ。
「勝ったのはミスラで、賢者様から招待券を受け取るとどこかに行ってしまいました。さっそく食べに行ったのでしょう」
そこまで聞いてオーエンは手を止める。そして先ほどまでの追いかけっこを思い出す。自分を追いかけていたミスラの手には、紙切れが握られていなかったか。呪符だと思っていたそれはもしや招待券だったのではないか。何のつもりで声をかけようとしていたのか。いや、まさか、と否定しても、一緒に食べようと自分を誘うつもりだったのでは、という都合のいい考えが頭から離れない。それにしても、というリケの言葉で我にかえり、オーエンは顔を上げた。
「ミスラが参加したのは意外でした。ミスラも甘いものが好きなのでしょうか」
「さあな。もしかすると誰か誘うつもりで参加したんじゃねえの」
ちらりとネロの視線がオーエンに向けられた。その視線に気づき、オーエンの表情は苦いものに変わる。知った口をきくなと咎めたくなる。関係を見透かしたように見られたのも不快だった。ミスラと仲が良いのだとでも言いたいのか。何を見てそう考えるのか。彼との関係はそんなものではない。オーエンはすました表情で一言だけ告げる。
「僕は誘われてないけど」
その返答にネロは気まずげに視線を逸した。
「やべえ、墓穴掘った……」
「悪いと思うならシロップとクリームを持ってきてよ。こんなんじゃ全然甘くない。ほら早く」
取りに行ったネロを見送ると向かいのリケと目が合ってしまった。まっすぐに向けられた視線から目をそらし、話す気はないことを示すが、リケは逃す気はなかったようだ。
「オーエンとミスラは友だちなのですね」
「違うよ」
「なるほど、だから招待券を欲しがったというわけですか。僕がミチルとケーキを食べたかったように、ミスラもオーエンとケーキを食べたかったのですね。ふたりは友だちだから」
「違うったら」
友だちなんて生ぬるい言葉にしないでほしい。賢者もオーエンとミスラを友人だと称したがるが、友人なのだとしたら半殺しだなんてするわけがないだろう。
「ですが、ふたりはいつも喧嘩をしています。喧嘩は友だち同士でも行われると聞きましたが。ふたりのそれは過激に見えます。やはりふたりは友だちではないのかもしれませんね」
「だからそう言ってるでしょ。きみはずいぶんといい性格してるよね」
勝手に話して、勝手に自己解決に至った少年にオーエンはため息をこぼす。中央の国の魔法使いは本当に憎たらしい。
戻ってきたネロからクリームとシロップを受け取り、余すことなくすべてケーキにかけてから口をつける。甘すぎないのですかというリケのつぶやきも聞かなかったことにする。
『はあ……。見ているだけで胸焼けがしそうですね。気持ちが悪くなってきました。消し炭が食べたい』
ミスラならそんなふうにぼやいただろうか。もしかしたら誘いを受けていれば、今頃一緒にケーキを食べていたのはミスラだったのかもしれない。
ケーキを食べ終えて、オーエンは北の魔法使いが集まる部屋へと向かった。あのままミスラがひとりでケーキを食べに行くとは思えない。招待券を捨ててしまっている可能性もあるが、まだ彼の手にあるのだとしたら宝の持ち腐れだろう。
部屋にいたのはスノウ、ホワイト、ブラッドリーである。ミスラは不在のようだった。オーエンの来訪に気付き、双子はブラッドリーから離れていく。助かったと大きなため息をつくブラッドリーはひどく疲れ切っていた。今日も双子にもみくちゃにされていたのだろう。
「おお、オーエン。どこに行ってたんじゃ? ミスラがそなたのことを探していたんじゃぞ」
「別にいいでしょ。どこにいたって。それで? 探してた本人はどこに行ったの」
「ミスラなら賢者とケーキを食べに行ったぞ」
思わぬ展開にオーエンはきょとんと瞬きをひとつ。しかし、すぐさま怒りが込み上げてきた。なぜ自分を差し置いて? そのふたりがケーキを食べるのか。荒れ出す胸中を落ち着かせるべく深呼吸を一度行い、つとめて冷静に聞き返す。しかし声音も言葉も刺々しさは抜けない。
「もう一回言ってよ。誰が、誰と、どこに、何をしに行ったって?」
「じゃーかーら、ミスラは賢者とケーキを食べに行ったぞ」
「ついさっきミスラが賢者を連れて行ってのう。なにやら招待券を得たからと、む、どこへ行くんじゃ、オーエン」
ホワイトは話を最後まで聞かずに背を向けたオーエンを呼び止める。振り返ったオーエンは不機嫌さを隠さないでいた。
「決まってるでしょ。言う必要ある?」
「まさかオーエン、そなた」
「それ以上は言わないで。僕を差し置いてケーキを食べるなんて許さない。それだけだよ」
そう言い残して去っていったオーエンに、呆気に取られていた双子だったが、やがて互いに顔を見合わせた。
「もしかしてオーエンちゃん」
「さてはオーエンちゃん」
「やきもちを妬いておるのかの〜!」
「自分が一緒に行きたかったのかの〜!」
きゃーっと途端に盛り上がり始めた双子とは対照的に、ブラッドリーは呆れ顔だった。
「いや、単に食い意地張ってるだけだろ」
「もー! ブラッドリーちゃんってばノリ悪ーい!」
「ここは盛り上がるところなんだからねー?」
部屋を後にし、オーエンは空からふたりを探す。ケーキを食べるのは自分なのだ。渡すものか。そんなことを思いながら探していれば、ほどなくしてミスラと賢者を見つけた。ケーキ店とおぼしき建物の前で何やら話をしている。そんなふたりのもとへと降り立つと、賢者は驚いたようにわっと声をあげた。
「オーエン」
賢者はなぜか安心したような表情になる。そのことに首を傾げていると、ミスラが面倒くさそうに口を開いた。
「はあ……何しに来たんです?」
「別に。僕を差し置いてケーキを食べようだなんて、ふたりともいい度胸してるよね」
「あなたには関係ないことでしょう」
そんなミスラの言葉にオーエンは鋭い視線を向ける。ミスラもそれに応じ、互いに睨み合いが始まった。険悪な雰囲気が漂い出すふたりに、落ち着いてください、と賢者が割って入った。
「まずはきちんと話しましょう。ミスラはオーエンと来るつもりだったんでしょう? さっき言ってましたよね」
「そうでしたっけ。覚えていませんね」
「ミスラ……」
なだめる賢者からもなおも不機嫌なままのオーエンからも、ミスラはそっぽを向いた。そしてぽつりと独り言のようにつぶやいた。
「だってあなた、逃げたじゃないですか。行きたくないんでしょう」
ミスラの言葉にオーエンは押し黙って視線を下げ、賢者が困ったような表情を浮かべた。雰囲気は気まずいものへと変わる。その空気の中、突然からんからんと鐘が鳴った。一斉に顔を上げた三人が注目する中、店のドアを開けて出てきたのは年若い少女だった。彼女はオーエンらの姿を見るや、感激したように甲高い悲鳴を上げた。
「きゃあ! お客様! 賢者様と魔法使いさんたちが来店してくれるってあの子が言ってたけど、本当だったんだ!」
どうやら彼女が店主のようである。きゃあきゃあと騒ぐ勢いに、その場にいた三人はつい逃げ越しになったが、真っ先に我にかえって、オーエンとミスラの背中を押したのは賢者だった。
「ちょっと賢者様」
「今回はちゃんとふたりで楽しんでください」
いや、楽しめるわけがあるかと反論する前にオーエンの手は店主に引っ張られた。ミスラも同様だ。賢者が一礼してその場を去ると、店主は賢者に向かって手を振って見送る。
「来店お待ちしてますねー! では、こちらのお兄さんたちは本日ご来店ですね! 二名様、入れまーす!」
「ちょっと、押さないでよ」
「この人なんなんですか、結構力強いんですけど」
回り込まれてぐいぐいと背中を押され、ふたりは店内へと入れられた。そして押されるがままにイスに座らされる。店主は張り切った様子でキッチンへと向かった。
どう座らされても構わないが、よりによって向かい合うように座らされたのは、何のゆえがあってのことだろう。オーエンからすれば先ほどの今である。気まずくて仕方がない。ミスラに何と声をかけるべきなのか。
「何食べますか。あなたのことですから甘ったるいのがいいんでしょうけど」
「おまえさ……。はあ……なんか馬鹿馬鹿しくなってきた……」
どうやら気にしているのは自分だけだったようだ。脱力しつつ、品が書かれた一覧を見ていると、奥から店主が大丈夫ですよ! と声をかけてくる。
「選ぶ必要なしですよ! コースで何を出すかは決まってますので! はい! まずはパフェをどうぞー!」
最初にしてはずいぶんと量の多い品が出てきた。しかしクリームたっぷり、果実たっぷり、シロップもかかっているというあたりはオーエン好みだった。途端に機嫌を良くして、オーエンはスプーンでクリームと果実をすくい、口に運んだ。味はやかましい店主の割にはきちんとしており、甘さもちょうどよかった。夢中になって食べているうちに、じっとこちらを見つめているミスラの視線に気づいた。
「何」
「いえ。最初は、招待券なんて、別にどうでもよかったんですよ」
ミスラは急に語り始める。いったい何を、と怪訝な表情のオーエンを気にすることなく、ミスラは続ける。
「でも、ふとあなたの顔が浮かんだんですよね。こんなふうに、甘いのを頬張るあなたの顔が。じゃあ、やっぱりもらおうかと思ったんですよ」
「は……」
「でもあなたは俺を見るなり逃げ出したじゃないですか。追いかけても捕まらないし……ああ、思い出したらむかついてきたな……。殺していいですか」
「いいわけないだろ」
今にも魔法を放ちそうなミスラだったが、お話してるところすみません! と店主が割って入ってきたことで気が削がれたのか、おとなしく引き下がった。
「今日は本当にありがとうございます! 今のうちに次回使える招待券進呈しますね」
「また二人分のコース?」
「いえ今度は五人分のコースです。今度は賢者様ともう二人ほどお連れくださいね! 宣伝のためにも! じゃあ次の品の準備をしますので覚悟決めてくださーい!」
覚悟という、およそそぐわない単語が出てきたことに首を傾げつつ、オーエンはテーブルに置かれた招待券を手に取った。見れば有効期限は七日以内と書かれている。
「結構早いな。明後日の依頼の後にでも来ようかな」
「今日も食べて明後日も食べるんですか? 本当に好きですね」
「ミスラも来てよ」
誘われたことにミスラは目を丸くする。
「珍しいですね。俺を誘うなんて。何か企んでるんですか?」
「もちろん」
そう答える口元は弧を描いている。オーエンの顔に浮かぶのは悪巧みをするときのそれだ。
「僕とミスラのふたりで、他は呼ばない。五人分をふたりで山分けするんだ。いい提案だと思わない?」
オーエンの提案に面白いとミスラは応じた。
「その話のりました。ふたりじめにしてやりましょう」
ふたりでそんなことを企てていれば、お待たせしましたと店主の弾んだ声とともに、新たにケーキが運ばれてきた。
「クリームたっぷり全盛りケーキです!」
「たっぷりすぎませんか」
「何、食べれないの? じゃあそれはこっちによこしなよ。僕が食べる」
「さらに追加のケーキでーす!」
「さすがに多くない? 別にいいんだけど」
「帰りたくなってきました」
「何言ってるの。来たからには全部食べるまで帰らないよ」
「はあ……」
面倒くさそうにため息をついていたミスラだが、結局最後まで付き合っていたのであった。
オーエンとミスラが魔法舎に帰ってきたのは夕方になろうかというあたりだった。ふたりを見つけて賢者が駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、オーエン、ミスラ。どうでした?」
「おいしかったよ」
「甘すぎて気持ちが悪いです。寝ます」
「あ、はい、お疲れ様です」
自室へ向かったミスラを見送った賢者はオーエンへと振り返る。そして彼の顔を見て、ふふふと何やら嬉しそうに微笑んだ。
「何、気味悪く笑ったりなんかして」
「楽しめたようで何よりです。顔にそう書いていますよ」
「そんなわけないでしょ」
オーエンは眉根を寄せるも、賢者は変わらず微笑んだままだ。ふと賢者はオーエンに手に握られた紙片に気付き、そちらへと視線を向けた。。
「あれ? その手に持ってるのは招待券ですか?」
「あげないよ。僕がもらったんだから」
ふたりじめ。いや、ひとりじめだ。甘いケーキもパフェも、過ごす時間も、どれも自分のものだ。他の誰にも分けてなんかやるものか。
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