「もう! フィガロ先生!」
食堂に響いたのはミチルの声だ。
朝寝坊をするなんて、と叱られていてもフィガロの顔はゆるみきっていた。北の大魔法使いが年少者、それも二十も満たない者に叱られている姿などここでしか見られないだろう。怒りもせず、ごめんごめんと、許しをこうというのもまた。南の国におけるフィガロのふるまいは北の国の魔法使いからすれば奇異に映る。薄気味悪くて気持ち悪い。オーエンとミスラはそう吐き捨てた。
「それに朝寝坊なんていいご身分ですよ。俺なんて朝寝坊どころか徹夜だっていうのに。ああ……腹が立つな……」
「ちょっかいでも出してみる?」
「そうしま……いや、やめときます。ミチルもルチルもいるので」
仲良く朝食を囲み始めた南の魔法使いたちからミスラは視線を外し、またひとつため息をついた。仕掛けたところでふたりが止めるだろうし、万が一彼らになにかあっても困る。そもそもフィガロが相手をする前にうまく状況をおさめてしまうだろう。それも気に食わない。
「まあ、オーエンでいいか。相手してもらえます?」
「嫌だよ」
矛先が自分に向けられ、オーエンは冷や汗をかく。仕掛けられるのも時間の問題か。誰かに向けさせることはできないか。すると慌てたように走ってきた人物を見つける。
「すみません! 寝坊してしまって!」
食堂へ入ってきたのは賢者であった。東の魔法使いたちのもとに駆け寄って頭を下げていた。朝の支度もそこそこに来たのか寝ぐせもあまり直っていなかった。
「ほら、賢者様も朝寝坊したってさ」
そう言って賢者を指差すとミスラの意識は無事そちらへと移った。
「いいですね、朝寝坊。してみたいもんですよ。どうしたらできるんだか……」
厄災によってつけられた傷のせいで彼は不眠に悩まされている。寝過ぎるということは今の彼にはできないことだろう。眠れば長い夜も一瞬で終わるが、眠れないのならば夜が明けるまでずいぶんと退屈だろう。
昨夜も彼と過ごしたオーエンだが、疲れて寝入っていたところをミスラから叩き起こされたということがあった。こちらは眠れないのだ、夜は長いのだから相手してくれと、ばんばんと背中を叩かれた。何度か繰り返され、付き合っていられずに部屋を飛び出した。その後ミスラがどうしたのかは知ったことではない。先程の発言からするに徹夜となったのだろう。
難儀な傷だ、自分の傷もそうだが。パンケーキを食べ終え、片付けようと立ち上がったときだった。
「ああ、そうか」
不意にミスラが何かを思いついたようにぽんと手を叩いた。そしてオーエン、と声をかけてくる。絶対にろくなことを思いついていないだろうと思いながら、何、とその呼びかけに応じた。
「今夜も部屋に来てください」
誘いを受けたオーエンは魔法舎の一階へ向かっていた。いつもは目撃されないようにそっと忍び込んでいくが、今日は誰もいないことを確認している。そのため忍ぶ必要もない。ミスラと同じ階で過ごしている魔法使いたちは、今夜はシャイロックのバーで過ごすらしく不在だ。
だが、さすがに不用心過ぎるだろうか。続けて求められたことで自分も浮かれているのだろうか。ふとそんな考えが浮かび上がって、足取りは慎重になった。やはりいつものように忍んで、と思っているところに、足音が聞こえた。魔法で姿を隠してそちらへと向くと賢者が歩いてきているのが見えた。何やら道具を詰め込んだかばんを手に、ミスラの部屋がある方へと向かっている。賢者もミスラに用事があるのだろうか。いや、まさか、彼は自分を誘っただろうにと思いつつ、その背を追いかける。賢者が足を止めたのはミスラの部屋だった。どういうことだ。ノックをする前にオーエンは姿を現す。
「ちょっと」
「えっ、オーエン!?」
急に姿を現したオーエンに賢者は驚いた様子だ。
「何、今日も寝かしつけ?」
「あ、はい。今夜お願いしますとミスラに呼ばれて」
「は?」
「す、すみません!?」
凄まれた形となり、賢者が咄嗟に謝るが、なぜそんな反応をされたのかとピンとはきていない様子である。寝かしつけと逢瀬が同じ夜に行われることはない。いったいどういうわけだ。無言で凄むオーエンもそれなりに困惑しているのだ。やがて内側からドアが開く。そして部屋の主が不思議そうに顔をのぞかせた。
「何やってるんですか。早く入ってきてくださいよ、ふたりとも」
「え?」
「ふたりとも?」
「はい」
ミスラはうなずき、二人を中へと手招く。
「今夜は三人で寝ましょう」
「帰る」
「ま、待ってくださいオーエン! 話を聞きましょう! 何か! 何か事情があるかもしれないので!」
「絶対ない」
踵を返したオーエンを賢者が必死になって止めた。苛立ちと怒りを隠さないオーエン、焦る賢者にミスラは静かにしてくださいと声をかける。
「廊下で騒がないでくださいよ。中に入ってください」
「おまえに言われたくな……ちょっと、離して」
オーエンはミスラに手を引っ張られて部屋に押し込まれる。賢者も同様に部屋に入れて、ミスラはドアを閉めた。
「じゃあ寝る位置なんですが」
「ミ、ミスラ、まずは聞きたいことがあるんですが!」
「なんですか。早く寝たいのでさっさとしてください」
「ええと、なぜ三人で寝るということになったんですか」
「なぜって、単純な話ですよ」
そろそろぐっすり眠りたい。そのためには賢者の手を借りる必要がある。
だがしかし、オーエンと過ごしたい気持ちも強い。眠れずとも彼と過ごす時間は心地よいのだ。
さてどうするべきか。
そうだ。
三人で寝ればそのどちらもが叶うのではないか。
なんていい考えだろう。
これはさっそく実行しなくては。
「というわけです」
「帰る」
「帰しませんよ」
ミスラは再び踵を返したオーエンの腕を掴んで引き止める。
「あなたがいなくなってどうするんです」
「いなくてもいいだろ。さっさと寝かしつけてもらいなよ」
「あなたと一緒にいたいんですよ」
「だったら賢者様を帰して」
「それはできません。眠れなくなります」
「じゃあやっぱり僕が帰る」
「何が気に入らないんです」
「何がって」
ミスラからすれば眠れる上にオーエンと過ごせるのだから最高だろう。だがオーエンからすれば気に入らない。許せない。何が気に入らないかを言いかけるも賢者の存在を思い出して口をつぐむ。ふたりきりでいても言わないことを、第三者を前に言えるわけもない。何も答えないオーエンにしびれを切らしたのか、ミスラはオーエンの手を引いてベッドの方へと連れていく。
「ちょっとミスラ」
「はいはい、さっさと寝ましょう」
俺は眠いんですからとオーエンとともにベッドへ入っていき、壁際にオーエンを押しやっていく。そして片手はオーエンのそれとしっかりつなぐ。
「じゃあ賢者様はこっちで俺の手を……何帰ろうとしてるんですか」
こっそりと帰ろうとしていた賢者もミスラによって引き止められた。
「いや、その、ふたりのお邪魔のような気がして」
「あなたがいなかったら眠れないじゃないですか。早くこっちに来てください。一緒に寝ましょう」
「えっと、ベッドが狭くなりますから、これで」
そう言って賢者は椅子をベッドの横に動かしてきて腰を下ろし、ミスラが伸ばしてきた手を握ってやる。安心したようなミスラの表情に賢者は微笑むも、不満げなオーエンの顔も視界に入り、彼らから気まずげに視線を逸らした。そんな賢者をよそにもぞもぞと動きながらオーエンは不平不満の声を上げる。
「ねえ、狭いんだけど」
「なんですか急に。いつもふたりで横になってるのに、そんなこと言わないでしょう」
「うるさいな、もうちょっとそっちに行って」
「ぐ……」
「ねえちょっと」
「……う」
「ミスラ」
「……ぐう」
「……寝たの?」
見ればミスラはすでに夢の中。穏やかな寝息を立てている。賢者も目を丸くしてまじまじとミスラを見つめ始めた。
「今日はすごく早いですね……よっぽど疲れてたんでしょうか……」
「すぐ寝るものじゃないの?」
「こんなにすぐに寝るっていうのは最近ないですね。眠れる日は増えていますが、今でもいつもより時間がかかったり、失敗してしまったりもします」
「ふうん」
それほど関心のない返事をしたオーエンはミスラの手を強く握るなどして起きないか試してみるが、眠りはもうすでに深いらしく、起きる気配はなかった。
「これで寝かしつけは終了?」
「そう、ですね、じゃあ、明日も早いので、東、の、皆さん、と……」
賢者の声がだんだんと途切れ途切れになる。そして不意にがくりと頭が下がり、椅子に座ったまま、賢者もすうすうと寝息を立て始めた。
「ええ……」
唐突にその場で寝始めた賢者にさすがに困惑を隠せない。彼も眠れていなかったのだろうか。部屋に三人。現在起きているのは自分だけ。ひとりだけ置き去りにしてすぐに夢の世界へ旅立ったふたりに憤慨しつつ、寝るしかないと決めて、オーエンは灯りを消した。そしてミスラとつながれた手を、起きるまで離すまいと握り直して目を閉じた。
「う、わああああ!?」
翌朝。賢者の叫び声でオーエンは飛び起きた。何事かと周囲を見回せば賢者が慌てた様子で身支度を整えているのが見えた。眠気が残る身体を起こしたオーエンはため息まじりに声をかける。
「うるさいな……なんなの」
「ああ、おはようございますオーエン! 朝ですね!」
「そうだね。何を慌てているの」
「依頼で早めに出発する予定だったのに、寝過ぎちゃって!」
「今日も寝坊? 気が緩みすぎてるんじゃない」
「そうかもしれません……うう……と、落ち込んでる場合じゃなかった! 行ってきます!」
今日も寝癖を直せずに賢者は部屋を後にしていった。近くで騒がしくしていたからかミスラも目を覚ましそうな気配だ。オーエンがカーテンを開けて朝日を部屋に入れてやると、ミスラはまぶしいとつぶやいて目を開けた。オーエンは彼の顔を覗き込んでとりあえず挨拶をする。
「おはよう」
「……おはようございます」
よく寝たと言ってミスラは大あくびをこぼした。
「気分はどう?」
「そうですね……」
オーエンとつながれたままの手を握り直しながらミスラは答える。
「よく眠れて、起きたときにあなたがいて、まあ、満足ですよ」
「……そう。なら、いいけど」
そっとつぶやいてオーエンは手を握り返す。ミスラも身体を起こして、しばしふたりでぼんやりと時間を過ごす。悪くない時間だなと思っていると、そういえば、とミスラが口を開いた。
「三人で寝ることの、何が気に入らなかったんですか」
「はあ……」
オーエンはミスラの頬を少しばかり強くつねっってやった。唐突につねられ、顔をしかめる彼に口付けてやりながら言ってやる。このわからずや。
「僕はおまえとふたりきりがよかったんだよ、馬鹿」
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