お誕生日おめでとうと言われても、虚ろな胸の中には染み込みも響きもしない。何のためにその言葉が存在するのだろう。オーエンはプリンをスプーンでつつきながら物思いにふけっていた。
食堂にいると誰もかれもが声をかけてくる。それがあまりに面倒で、オーエンは自分の部屋にこもって菓子を食べていた。ビスケット、クッキー、そして今はプリン。カラメルソースの後味を打ち消すための生クリームをたっぷり添えて、さらに甘みを足すために砂糖を振りかけてもらった。甘みが過剰ではないかと顔をしかめられても、満足のいく甘さがこれなのだから仕方がないだろう。
「失礼します」
自分がなぜこんなにも甘いものを好んでいるのか、いつからそれを好んでいるのかもはっきりと答えられない。そもそも自分というものがいつ始まったのかも知らない。気がつけば自分は北の国の大地を自分の足で歩いていた。北の国に弱者はいらない。耐えうるだけの強さを自分は持っている。だからここにいる。
「食べないんですか? 食べていいですか」
ここで過ごした時間はこれまでひとり過ごしてきた時間と比べればほんのわずかなもの。だというのに自分の周りは急激に変化しているように見える。例えば怯えていた瞳に確かな強さが灯るようになった魔法使い。例えば若い魔法使いを気にかけるようになった孤高の北の魔法使い。これまでを思えばありえない変化を遂げた者もいる。
「オーエン?」
自分も変わってしまったのだろうか。周りの態度が変わったように感じるのは、誰よりも自分に変化があったからなのだろうか。変化は恐ろしい。これまでの自分が揺らぐような気がして。
「返事がないならいいんですね。いただきます」
「……ん?」
視界の中にあったはずのプリンがいつの間にか形を崩していた。そこでようやくオーエンは我に返り、顔をあげる。目の前には生クリームやソースで手と口を汚したミスラが立っていた。
「は……? ミスラ、なんでこの部屋に、うわっ、何勝手に食べてるんだよ」
どうやらこの男、オーエンがぼんやりしているうちにやってきて、勝手にプリンを食べていた。しかも手づかみで。なんてことをしてくれたのかとオーエンがにらみつけてもミスラは平然としたまま。べとべとになった自身の指についたクリームをなめている。
「いただきますって言いましたけど」
「他に言うことあるだろ」
「食べていいのか聞きましたよ。ぼんやりしてて何も言わなかったじゃないですか」
「だからって」
「まあ、機嫌を直してください。これをあげるので」
そう言ってミスラはポケットの中から袋を取り出し、ぽいとオーエンの方へと投げる。危なげなくキャッチしたオーエンは手を拭いてから袋を開ける。中に入っていたのは黒っぽいクッキーのようなもの。
「何、おまえも祝いに来たってわけ」
「まあ、そんなところです」
「ふうん……」
おまえもそうなのかと、ひとり取り残されたような気分になりつつ、袋の中からクッキーをつまんで取り出す。クッキーの色はよく見ればこげ茶、いや焦げて、すっかり炭になっていないか。クッキーじゃなくてこれは消し炭というのが正しいのではないか。
「ちょっと」
布巾で手を拭いていたミスラはなんです、とオーエンの方を向く。
「何これ」
「クッキーですけど」
「これはクッキーって言わない。僕が消し炭なんて食べるわけないだろ」
「ああ、間違えました。こっちです」
今度は逆のポケットから袋を取り出し、再度投げて寄越した。どうせこっちも消し炭なのだろうと期待せずに袋を開ければバターの匂いが広がった。取り出してみればこちらはちゃんとしたクッキーである。シンプルなバタークッキーで色も食欲を減退させることのない色だ。まさか、彼が作ったとでも言うのか。自分のために? そんなことがあってはならない。そんなのは北のミスラではない。おまえが作ったの、と尋ねればミスラはあっさりと首を横に振る。
「俺が作ったわけじゃないです。リケが作ったものを拝借してきました」
今日のところは許しますと言っていましたよ、と付け足すミスラの言葉に安堵した。彼はそうでなくては。不安は消えてようやくオーエンはクッキーをかじる。
「甘くない……」
「十分甘いと思いますけどね」
「だから勝手に食べないで」
横からクッキーを奪っていくミスラを咎めるが、彼はまったく気にしておらず、次々に手に取っては口に運んでいく。
「あなたが満足するにはどれだけ甘くしなきゃいけないんでしょうね」
「知りたいの?」
「いえ、別に。万が一作ることになったらあなたに聞きますよ」
「教えないよ。どうせ忘れるんでしょう」
「まあ、そうですね」
「じゃあそれでいいだろ。そのまま、わからないままでいて」
甘いのひとつ作れないおまえでいいよ。
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