「……寒い」
季節は秋から冬へ。年の瀬が近づいていくほどに寒さも増していく。晴れ間はあったものの、吹きつける風はかなり冷えていた。油断して薄着にしたことを悔やむ。手に吐息を吹きかけてすり合わせつつ、オーエンは帰り道を急いでいた。夏であればこの時間は夕暮れが見れる頃だろうか。今の季節ではあたりはすっかり暗く、ぽつぽつと灯りがともり始めている。早足で駆けていけばやがて三階建てのアパートが見えてくる。
「はあ……やっと着いた……」
階段を上がって二階の奥の方の部屋。それが現在のオーエンの自宅だ。早く帰って、部屋の暖房をつけて温かいココアを飲みたい。そんなことを思いながら階段を駆け上がった。そして出くわしてしまった。
「あ」
「ああ、オーエン、こんばんは」
オーエンが借りている部屋の前のドアには男女がふたり。女の方は見たことがない。なんだか気の強そうだという印象を与える。濡れたような色気を放つ男の方はミスラ。オーエンとは腐れ縁の関係である。女は突然現れたオーエンを見て、怪訝な顔をしていたが、ミスラの知り合いと思ったのか、浅く頭を下げた。女とミスラとを見比べ、オーエンはつまらなそうに首を傾げる。
「その子は?」
「付き合い始めた人です」
さらりと言ってみせるミスラに女は気をよくして彼にしなだれかかる。ミスラに向けた視線のなんと甘いことか。そして表情も変えずに女の肩に自然と腕を回してやるミスラもミスラである。他人の前でいちゃつこうとする態度にオーエンは眉根を寄せたが、いいことを思いついたとばかりに、不意ににこりと笑んだ。
「ねえミスラ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんです、にこにこして」
「今日は別の子を連れて来てるんだね、あの子とはどうなったの?」
オーエンの言葉に、上機嫌だった女性の表情が一変して硬くなった。恋に恋し、陶酔していたともいえる視線は不安げなものへと変わる。どういうこと、とミスラに尋ねているが、彼は、候補がたくさんあるんですけど、誰のことですか、とオーエンに問う。その言葉に女は絶句し、ミスラに絡めていた手を離す。
「忘れちゃったか。ほら、気の弱そうな、かわいい子。昨日連れて来てたでしょ。いいのかな、こんなことして。これって浮気ってやつなんじゃないの?」
そうオーエンが言えば、ミスラは思い出したようにひとつうなずいた。
「あの人ですか。あなたも昨日見てたでしょう。どうなったかなんて、なんでわざわざ聞くんです」
「ふふ、なんでだろうね。……ねえミスラ、危ないよ」
ミスラは何のことかと首を傾げている。直後、わなわなと肩を震わせていた女が顔を上げて、涙ぐみながらミスラの横っ面を張り飛ばした。
「最低!」
そう言い捨てて女は走り去っていく。その後ろ姿をミスラはぼんやりと見送るだけで追っていく気配はない。もう何度も同じことを繰り返していればそうなるだろうか。女の足音と泣き声が聞こえなくなってから、オーエンはミスラへと視線を戻した。
「あーあ、また泣かせちゃった」
「あなたが泣かせたような……まあ、いいですけど」
ミスラが不平を訴えるように言い出すが諦めたようにため息をつく。そしてひっぱたかれた頬をさすり始める。昨日叩かれたのとは反対の頬だ。
「昨日の子もおまえをひっぱたいてたよね。別れる! って怒ってさ。あの子とはあれでおしまい?」
「多分そうでしょう。あれから着信もメッセージもないですし」
「追いかけないの?」
はい、というあっさりした返答にオーエンは何かを言いかけて口をつぐんだ。言ったところでどうにもならないし、こちらに利益はない。それに追いかけたくなるほどに執心を持つ前にこうなったのだろう。逆に執心を持つような相手が現れたら、彼は。
「……くしゅっ!」
くしゃみが出た。つられてか、ミスラも続けてくしゃみをする。寒さに震えるふたりは顔を見合わせた。
「……寒いな」
「入りましょう」
「そうする」
鍵を取り出してドアを開け、ふたりはばたばたと駆けるように部屋へと入っていく。手を洗い、カーテンを閉め、灯りをつけ、オーエンは床に腰を下ろしたミスラに指示を飛ばす。
「早く暖房つけて。あとお湯も沸かして」
「自分でやってくださいよ、面倒だな」
「ココアが飲みたい。ミスラも好きなの飲みなよ」
むっとした顔になるミスラだったが、仕方ないなと重い腰を上げ、暖房をつけ、ポットに水を入れて電源をつけた。そして棚に置いていたココアの袋と、ティーバッグをひとつつまんだ。オーエンがカップを持ってきたのを見て、最初から自分でやればいいのに、とミスラはぼやく。
「ああ、そういえば」
部屋で湯が沸くのを待っていると、ミスラがまた何かを思い出したらしい。カバンの中から何やらごそごそと取り出そうとしている。
「何、何かもらったの?」
「はい、ちょうど鹿肉をもらったんですけど、今日はそれのソテーでいいですか」
「おまえが作るならね」
「任せてください。料理は得意です」
自信たっぷりに胸を張るミスラにオーエンは呆れた視線を向ける。確かに彼が作る料理はおいしい方なのだが、いかんせん見た目と材料が心臓に悪い。どうにかならないものだろうか。取り出された鹿肉をしげしげと見つめてオーエンはつぶやいた。
「それにしても鹿肉なんて……どこからもらってきたんだよ」
「さっきの人からです」
「鹿肉をくれるって……だいぶ変わってない……?」
「惜しい人を手放しましたね」
「おまえがね。……あ、お湯沸いた」
ポットから音が鳴り、オーエンは腰を上げた。ポットを手に戻ってきたオーエンはカップにお湯を注いでココアの粉末を溶かす。ついでにミスラのカップにもお湯を注いでやると、ミスラは味がまだない湯を飲み始めた。
「味薄いですね」
「もう少しくらい待ちなよ。まだ味が出てない。単なるお湯」
そうたしなめられてミスラはつまらなそうにため息をつき、ごろりとその場に転がった。オーエンがふうふうと冷ましながらココアを飲んでいる間も寝転がったままだ。何やら考え中なのか天井をじっと眺めている。オーエンがココアを飲み終えてしまってもそのまま。彼なりに傷心中なのだろうか。
「……何それ」
舌打ちをひとつして、オーエンはミスラの方へ近づいていって彼へと覆いかぶさる。目を丸くしたミスラと視線が合い、オーエンはにこりと笑ってみせる。
「なんですか。急に」
「かわいそうなミスラ」
やさしくあまい声音で呼びかけ、オーエンはミスラの頬をいとおしげに撫でてやり、耳元でささやいた。
「振られてかわいそうなミスラ。僕がなぐさめてあげようか」
振られて、という言葉に顔をしかめたミスラだが、その後の言葉は続かない。オーエンを受け入れることを決めたのか、自分からオーエンに唇を奪った。
あれから二週間が経った。場所によっては雪が降るという予報があったが、ここはどうだろうか。久々に雪が見れるだろうかと少しだけ期待する。積もると厄介だが降る分には構わない。オーエンとミスラはもともとの北方の方の出身である。雪にも寒さにも慣れている、と言いたいところだが、何年も雪の降らない雪を過ごしているからか、年々寒さに弱くなってきた気がする。風はここの方が冷たいような気もしている。
場所によっては雪が、という通り、今日はこの前よりも冷えている。日が暮れてしまう前に早く帰ろう。オーエンは帰り道を駆けていく。何も考えずにいた。しばらくミスラが誰かを連れてくることはなかったからだ。階段を上がって自分の部屋の前に立つ男女を見て、オーエンは思わず舌打ちした。こういったことは忘れたころに起きるものだ。
「はあ……」
「ん? ああ、こんにちは、オーエン」
ミスラが能天気にオーエンへ手を振ってくる。もう片方の手は隣に立つ女のものとつながれている。しっかりと握りこまれて、なんとまあ、お熱いことだ。真面目そうな女は照れもせず堂々としている。その上オーエンに笑顔で挨拶をしてくる始末だ。あれが最後と思っているわけではなかったけれど、二週間も何もなければいったん終わりと思うだろう。やはり続くのか。ため息を一度ついて、オーエンは皮肉げに笑ってミスラに問う。
「その子、見かけない顔だね。どういう関係?」
「見た通りですが」
そう言ってミスラはつないだ手を見せつけてきた。さすがに照れた様子の女をオーエンは冷めた瞳で見つめた。ずいぶんと親密な仲のように見える。そう、付き合っているの、とつぶやいてから、オーエンはミスラに、いや、女に向けて話し出す。
「ずいぶん仲がいいんだね。さっそく抱いたんだ?」
その言葉にかっと顔を赤くする女に対してミスラは平然としている。いえ、まだです、これからですよ、という返答を横で聞き、女が信じられないようなものを見る目でミスラを見始めた。
「へえ、清い交際をしているんだね、お前らしくもない。次々、とっかえひっかえ女を連れてきては抱いて別れてさ。この前も振られたばかりで僕に泣きついてきたのに、懲りないな」
「泣きつきましたっけ?」
ミスラは首を傾げている。そしてわなわなと震えている女に気づいたのか、そちらの方へのんびりと視線を向けると、女はつないでいた手を振りほどく。驚くミスラから女はすぐさま距離を取り、けがらわしい、と大声を上げた。
「そんな人だとは思わなかった!」
そう言い残して女は背を向けて走り去っていった。ぽかんとするミスラに、楽しげに笑うオーエンのふたりがこの場に残された。
「思わなかったらしいよ」
「あなたが口を出すと、だいたいこういうことになるんですよね」
どうしてくれるんです、と恨めしげに見られ、オーエンは不快そうに顔をしかめた。知ったことではない。ミスラが振ろうが振られようが、抱こうが抱かれようが。ふんと鼻を鳴らして、それにしても、とオーエンは口を開いた。
「これで何回振られたんだろうね、おまえは」
「振られてはないんじゃないですか」
「本気で言ってる?」
呆れたという視線にも動じず、ミスラはうなずいてみせる。
「まだひっぱたかれてないので」
「あの反応からして終わった気がするけどね」
だがミスラは納得していないようだ。
「まだ好かれてるとは思いますけど」
「いや……どこからそんな自信が?」
「だいたいわかります」
「わからないだろ、おまえには」
「あなただって俺が好きでしょう」
ミスラはオーエンの目をまっすぐ見て言う。そんな彼の言葉にオーエンは目を瞠った。そしてしばしふたりは見つめ合う。先に視線をそらしたのはオーエンの方だ。苦い表情を浮かべて、ばかばかしいと吐き捨てた。
「僕が好きなのはお前の顔。訂正して」
くしゃみをする前に部屋に入ってしまおう。オーエンは鍵を開け、ミスラの手を引いてドアを閉めた。そして顔を上げ、もう一度ミスラに言い聞かせる。
「僕が好きなのはお前の顔。調子に乗らないで」
そしてその三日後。夕方にだいたい事件は起きる。この前のように。ならば昼下がりの今はどうだろう。もはやいつ起きてもおかしくないような気がしてきた。オーエンが警戒しつつアパートの階段を上がろうとしたときのこと。ぱん、と音がしたのちに、女の声が響いた。
「最低!」
そのまま女は階段を下りてきてオーエンとすれちがった。一瞬のことだったが表情は硬く、それでいて涙ぐんでいるように見えた。既視感があるな、と女を見送りつつ、オーエンは階段を上がる。部屋の前のドアにはミスラが立っていた。
「おかえりなさい、オーエン。まさか一部始終見てたんですか?」
「今日は今来たところだよ」
さすがにそんな悪趣味なことはしない。できれば出くわしたくはない場面なのだから。それで、今日は何をしたの、とオーエンは尋ねる。今回はオーエンは全く関与していない。ミスラに責任があると言っていいだろう。いったい何をしたというのだろう。オーエンの問いにミスラはわからないと首を振ってみせる。
「よくわかりません。なぜか、早口でまくし立て始めて、聞き取れないしよくわからないしなので、適度にうなずいていたら、なんか急に怒り出したんですよ」
それは怒るのではないのだろうか。ミスラという男は妙に素直で、それでいて妙にぼんやりとしている。早口でまくしたてられるとうなずくしかないとぼやいていたことがある。そしてぼんやりとしているものだから言いくるめられていることも多かった。それでも弱者の立場にならないのは妙に強かったからである。考えてみればこの男、なんともつかみにくい男である。そんな男と三年もよく一緒に住んでいるものだ。しげしげと見つめていると、ミスラはオーエンに叩かれただろう頬を見せてきた。
「ここ腫れてません?」
「赤くはなってる。また振られちゃったね。……かわいそうに」
頬を撫でてやりながら、オーエンは声量を落としてミスラに誘いかける。
「なぐさめてあげようか」
耳元でささやきかけられたミスラはぴくりとまつげを震わせ、そっとうなずいた。そんな彼に満足げに笑んでオーエンは形の良い耳を食んだ。
互いに果てる頃には夕方になっていた。そろそろ部屋が暮れるだろうか。傾いた日差しが部屋の中に入ってきていた。何もまとわず、ぐったりと身を横たえるミスラの髪をいじっていたオーエンは、ふと思い出す。そういえば玄関の鍵を閉めていただろうか。確認しに行こうと起き上がると、ミスラがオーエンの手を引いた。驚いてオーエンが振り返ると、まだだるさが残った瞳がオーエンを見つめていた。
「何、どうしたの」
「こっちの台詞です。どこに行くんです」
「鍵を閉めてないから閉めに行くんだよ」
「別にいいでしょう、そんなことは。閉めても閉めなくても誰も入ってきませんよ」
「そうだろうけど、そろそろ閉める時間だし」
「もう少しここにいてください」
甘えるような響きを持った声にオーエンはたじろぐ。いったいどうしたというのか。いつもならあっさりして終わりだろうに。ついついほだされかけるもオーエンは首を振ってベッドから離れようとするが、ミスラがそれを許さない。
「なん、なの、離してミスラ」
「オーエン、俺たちの関係ってなんだと思います」
「はあ? 急に何」
「聞かれたんですよ、聞かれてるんですよ、これまでも。オーエンという人は、あなたにとってどういう人なのかって」
北の方にいたときからの腐れ縁。旧知の仲。三年も暮らしている同居人。答え方はいくらでもあるだろう。似つかわしくないが友情と呼んだっていい関係だろう。
「友情? 俺とあなたにそんなものが芽生えていると思いますか」
「何が言いたいの」
「友情なんかないでしょう、友情と呼ぶには情欲にまみれている」
「……何、恋愛だって言いたいの? 恋人だって?」
何より似合わない言葉がオーエンの口から出てきた。こいびと、と口にしたミスラをオーエンは睨みつける。
「うぬぼれるなよ。そんな関係なわけないでしょ」
「じゃあ、なんなんですか」
焦れているミスラから視線を逸らす。そんなことは自分が知りたいのだ。この関係を何と呼ぶのか。もうわからない。いつからおかしくなったのだろう。あの日ミスラを抱いてしまったときからか。あの日ミスラが女を連れ込み始めたときからか。女がついて離れないのを見て何度舌打ちをしただろう。
「オーエン」
「うるさい、黙って」
言い争うふたりは玄関のドアが開いたことに気づかない。勝手に入ってきた女の存在に気づかない。先ほどの女がミスラに謝りに来たなど思いもしない。がらりと部屋の戸が開いて女が部屋に踏み入れたときには、オーエンはミスラを押さえつけていた。予想もしていなかったふたりの姿に、行為に、関係に、絶句する女の姿にようやく気付いたオーエンは、笑みを浮かべて問う。
「僕たちの関係、なんて呼ぶんだと思う? 教えてよ、ねえ」
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