良い夢は終われば虚しい。悪い夢は終わっても苦しい。だから夢見はいつだって悪い。夢を見た時点で起きた後は嫌な気持ちが残るのだから。胸につかえたものを吐き出すようにため息をついてみるが、気分はよくなりそうにない。あきらめてオーエンは身体を起こした。
誘いを振り切って早くに寝付いたはいいが結局目が覚めてしまった。夜はまだまだ長く、朝まではあまりに遠い。目も冴えてすぐには眠れそうにない。隣のオズに嫌がらせでもしてみようかと思ったが、今夜は双子やフィガロに連れられて不在である。ブラッドリーの部屋も静かだった。ネロに夜食をねだっているか、くしゃみでどこかに出かけてしまったか。この階には現在オーエンひとりだけ。ああ退屈だ。暇つぶしに何をしようか。部屋を出て階段を下りた。
騒がしい場所を避け、人目を避けてオーエンは魔法舎をさまよった。夜でなければ、本当に誰もいないのなら好き勝手に歩くことができた。もしかしたら歌っていたかもしれない。ここが北の国であれば、かつてであれば、などと考え事をしながら歩いているうちにオーエンは一階まで下りており、気が付けばミスラの部屋の前に立っていた。
「うわっ……」
オーエンは顔をひきつらせた。無意識で彼のもとに向かっていたというのか。そんな自分が信じられず呆然とする。ここのところ通い詰めてしまっているからだろうか。習慣づいてしまったのだとしたら嫌すぎる。それに今夜は誘いを断った。だというのに彼に自分の姿を見られでもしたら、と思うと気が気ではない。早く戻らなくては、と引き返そうとしてオーエンは気づく。見ればミスラの部屋のドアが開いている。隙間からふたりぶんの声が漏れて聞こえてくるがはっきりとした内容は聞き取れない。
「あはは……それは……かもしれませんけど」
「……ですけどね……」
そっと中を覗いてみると、ベッドの横で椅子に腰かけた賢者の後ろ姿が見えた。賢者が何事かを話すのを、ミスラが眠たげな声で応じている。隙間から漂ってくる薬草の匂いにオーエンは顔をしかめる。甘くない、酸味を感じるような、それでいて苦みも含む匂い。これでリラックスと安眠効果があるというのが信じられない。
薬草の力と賢者の力を借りて、今夜ようやくミスラは眠れるのだろう。良い夢を見て、さわやかな朝を迎えるのだろう。そう思うと羨ましい。妬ましい。自分は眠れないのに、おまえは眠るのか。こちらは夢見が悪かったというのに。そんな思考に引きずられてつい舌打ちをしてしまうと、ぱっと賢者がこちらを振り向いた。
「えっ、そこに誰かいます?」
賢者が立ち上がった音がした。そしてこちらへ向かってきそうな気配を感じ、オーエンはすぐさまその場を後にした。自分の部屋へと戻ってベッドへ飛び込むが眠気はなかなか訪れない。寝返りを何度も打っても、何をしても眠れる気がしない。結局オーエンは起き上がり、再び部屋を出て、階段を下り、一階へと向かった。こうなったらミスラも道連れだ。眠れなくなれ。悪夢を見てしまえ。熟睡している彼のもとに魔法をかけてやろう。そんな思いを胸にオーエンはミスラの部屋の前に立った。
彼の部屋のドアは先ほどとは違って閉まっている。魔法も何もかけられていない。ドアノブを回せば簡単にオーエンの侵入を許した。ずいぶんと不用心だが、ここにミスラへ襲撃をするような魔法使いはいないだろう。逆はよくあることだけれど。賢者は自室に戻ったようだ。暗い部屋の中、オーエンは小さな灯りをともして、ミスラの方へと近づける。すると彼の寝姿がよく見えた。目隠しと抱き枕を装備して、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。ベッドに腰かけ、目隠しをずらしてやる。そんなことをしても眠りは深いのか起きる気配はない。ぎゅっと三日月型の枕を抱きしめ、口をぽかりと開け、目を閉じて眠る彼はあどけない幼子に見えた。
「そんな顔して、どんな夢を見ているの、ミスラ」
憎たらしいくらいに穏やかな寝顔を晒す彼の頬を撫でる。やさしく撫でてやりながら、オーエンは呪文を唱える。眠るミスラが悪夢を見てくれるように。しかめ面になっていく彼の寝顔に何度となく口づけを落とし、オーエンはミスラを見つめる。第三者から見ればいとおしいものを見守るようなそれであるが、実際にやっていることは安眠妨害、嫌がらせである。眉間にしわがよっていくほどにオーエンの機嫌はよくなっていく。
そうこうしているうちにミスラが目を開けた。獣のような唸り声をあげ、目をしばたたかせ、そばで自分を見つめるものに焦点を合わせる。オーエン、と呼びかける声でオーエンは撫でていた手を離し、ベッドから腰を上げた。大あくびをこぼしてミスラは起き上がり、オーエンをにらみつけた。
「なんですか。夜這いですか? せっかく寝てたのに……」
「違うよ」
「じゃあなんですか」
「邪魔しに来たんだよ。おまえが熟睡してるから」
「寝かせてください。殺しますよ」
「そんな眠気たっぷりに言われてもね」
「はあ……久しぶりに眠れたのに……どうしてくれるんですか」
「知らないよ。寝直すか、暇をつぶすか、自分で考えたら?」
そう言ってオーエンはミスラに背中を向けて部屋を出ていこうとする。さすがに引き留めるだろうかと思い、振り返ってみると、眠気がまだまだ残っているのかミスラは再びベッドに転がっていた。何事かをつぶやきながら眠ろうとしている姿にオーエンはまた舌打ちをひとつ。これではつまらない。張り合いがない。オーエンはミスラのもとに戻り、彼が引きかぶろうとしていた寝具を取り上げる。
「なんですか。夜這いですか」
「それしかないの? 僕はおまえだけ眠るのが気に食わないだけ」
「めちゃくちゃ迷惑ですねそれ……。うわ、なんですか、入ってこないでください」
靴を脱いでベッドに潜り込んできたオーエンをミスラは追い出そうとする。オーエンも負けじと居座ろうとし、さらにそれを抵抗し、ふたりはもみくちゃになって寝具はぐちゃぐちゃになる。しまいには取っ組み合いになってどたんばたんと音を立てているうちに、不意に部屋のドアがばんと勢いよく開いた。
「もー! ミスラさん! 夜中なんですから静かに寝てください!」
姿を現したのはルチルだった。やんちゃなんですから! と言いながら部屋へと入ってきて、取っ組み合っていたふたりを引きはがし、背中を押してベッドへと押し込んでいく。
「オーエンさんもですよ! さ! ふたりとも寝る時間ですよ!」
「その人は外に追い出してくださいよ……って、酒臭いな……。飲んでますね、ルチル」
「はい! フィガロ先生に勝ってきました!」
元気はつらつなルチルからはひどい酒気が漂ってきた。勝ってきました、ではないのだが。ルチルは強引にふたりをベッドに寝かしつけ、寝具をかけてその上からばんばんと勢いよく叩く。
「よし! 準備ばっちりです! おやすみなさい!」
満足げに言ってルチルは部屋を出て行った。嵐のようにやって来て去っていった彼の勢いに、ミスラもオーエンもされるがままだった。
「なんなの……」
「チレッタもあんな感じでした」
花のようであり、嵐のような人でした。どこか懐かしむようにミスラはつぶやいていた。どんな奴なんだよ、とオーエンは内心でぼやく。花であり嵐など矛盾していないか。聞くたびにチレッタという魔女の印象は謎めていく。別に詳しくなりたいわけではないのでどうでもいいことであるが。
それで、とミスラは寝返りを打ってオーエンの方へと向き直る。
「あなたは今日ここで寝るんですか?」
「疲れたし、戻るのも面倒だからここで寝る……」
先ほどミスラと取っ組み合いしたおかげでようやく眠気がやってきた。悪夢を見せることもできて、安眠も妨害できて目的は達成できた。あとは自分が寝るだけだ。オーエンは目を閉じてそのまま寝ようとしたが、べちべちと軽く頬をたたかれる。しばらく我慢していたがささやかな攻撃は止まず、今度は指で頬をつついてくる。さすがに目を開けて攻撃してくる指をつかまえ、ミスラへ抗議する。
「さっきから何するの。眠れないんだけど」
「寝かせませんよ。なんであなたが眠るんですか。俺は眠れないのに」
「いつものことだろ。残念だね、おやすみ……おい、僕は寝るんだってば」
オーエンは何やらもぞもぞと動き出したミスラを制止する。そんなつもりで来たんじゃないと何度言っても彼は聞く耳を持たない。
「夜が明けるまで付き合ってください。悪い話じゃないはずです。あなたは俺が眠るのが気に食わない。俺はあなたが眠るのが気に食わない。じゃあ、どちらも起きてればいいんじゃないですか?」
「そうはならないよ。ああもう、帰る」
眠気も疲れもあるが、ここにいてもミスラの妨害にあうだけだ。ミスラの手から逃れてオーエンはベッドから脱出する。呼びかける声にも応じず、オーエンはドアに手をかける。引き留めるだろうかと警戒しながらミスラの方へと振り返るが、ミスラは抱き枕をかかえたままオーエンへ手を振ってみせた。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
先ほどまで付き合えと力づくで引き留めようとしていたのに、気が変わったのかあっさりとオーエンを見送っている。それはそれで癪に障る。そしてミスラはオーエンが出ていくのを待たず、抱き枕と共にベッドに横になった。ああ、もうなんなんだ、この男は。気まぐれで、こちらのことを一切気にせず、自分勝手で。
結局。
「……オーエン? まだいたんですか? 寝ないんですか? 俺は寝ますけど」
「やっぱりむかつくから、帰らない。寝ないし寝かせない」
オーエンは開きかけていたドアを閉め、ベッドへ戻っていく。結局こうなるんじゃないですか、と呆れたように言うミスラの口をふさいでやりつつ、つけっぱなしだった灯りを消した。
「勝手ですね。帰ると言ってみたり、帰らないと言ってみたり」
「おまえに言われたくない」
そして今夜も眠れない。
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