多くの魔法使いは眠った頃だろうか。ひっそりと、いつもよりも静かな夜の魔法舎をオーエンはひとり歩く。特に用事があるわけではない。単にまだ寝る気にはならないだけだ。このまま誰にも会わないのならそれでいい。ひとりでいる方が気が楽だ。そういうというときにかぎって誰かしらに出くわすのだ。こんなふうに。
「あ、オーエン。こんばんは」
一階から上がってきた賢者と出くわす。むっと顔をしかめつつ、こんばんは、と挨拶を交わす。
「こんな遅くに何をしてるの」
「ミスラを寝かしつけてきた帰りです。オーエンは散歩ですか」
「きみに教える必要がある?」
「あはは……そうですね」
そんなやりとりをして、オーエンがふうとため息をついたのをどうとらえたのか、賢者が気づかわしげに尋ねてくる。
「あの、もしかして眠れないんですか」
「そういうわけじゃないけど、何? 何を企んでるの」
「企むとかではなく、その、もし眠れないならホットミルクを作ろうかと!」
賢者の提案を受け入れ、ふたりはキッチンにやってきた。賢者は手早く準備を整えて、小さな鍋にミルクを入れて火をつけている。これでミルクが温まればできあがりらしい。
「この前飲んだのは甘かったけど」
「はちみつを入れたんですよ。代わりにシュガーを入れてみてもいいかもしれませんね。今回もはちみつ入れますか?」
「入れる」
返事をして、ややあってから賢者は火を止めた。カップに慎重に注ぎ、はちみつを入れてかき混ぜ、ほんの少し冷ましてからオーエンに手渡してきた。
「どうぞ、ゆっくり飲んでくださいね」
受け取ったカップは温かく、口をつければホットミルクは飲むにはまだ少し熱い。オーエンがふうふうと冷ましていると、片付けを終えていた賢者と目が合う。まだいたのか。
「何、飲むまでいる気?」
「いえっ、ここで失礼します。おやすみなさい、オーエン」
去っていく賢者の姿が見えなくなってから、オーエンはシュガーを作り、ホットミルクにひとつ入れてみる。ふうふうと息を吹きかけて冷ましながら、いよいよ飲もうとしたときのことだった。
「こんばんは」
「げ」
ミスラの声だ。見れば入り口のあたりで大あくびをこぼして伸びをしている。まだ逃げられるはず。急がなくては、と慌てて動いたのがいけなかった。手に持っていたカップからミルクがこぼれてしまった。テーブルや床を汚しただけだったらそのまま逃げたが、服にもこぼしてしまって気を取られてしまう。そうこうしているうちにミスラがオーエンのもとに到着した。逃げるタイミングは完全に失われた。オーエンはカップをテーブルに置いて布巾を手にする。ミルク滴る服をごしごしと拭いている彼に対し、ミスラはマイペースに話しかけてくる。
「オーエン、賢者様見てませんか。まあ、オーエンでいいか。ちょっと付き合ってください」
「今そんな場合じゃないんだよ、見ればわかるでしょ」
ミスラは首を傾げた。拭いてるんですね、とつぶやいてから、ミスラの視線はテーブルへと向かった。そしてテーブルへと近づき、置かれたカップを手に取った。
「これ、なんですか? いただきます」
「……おい! 何勝手に飲んでるんだよ」
抗議しても遅かった。ミスラは残っていたミルクをぐびぐびと一気に飲み干してしまった。ああ、もう、これだからこの男は、とオーエンが怒っていてもミスラが気にしている様子はない。ふうと心地よさげにひと息ついている。おもむろにカップを逆さに振ってみせてから、物足りなさそうにカップを噛み始めた。
「なんだかぽかぽかして、眠れそうですね。これだけじゃ足りません。もっと作ってください」
「作らない。自分で作りなよ」
「作り方わからないです。あなたが作ったんでしょう」
「僕じゃない、賢者様が作ったんだよ」
「賢者様はここにいたんですか」
「さっき帰ったから今頃部屋じゃないの?」
「なるほど」
ひとつうなずくとミスラは扉を描き、賢者の部屋へと空間をつなげる。そして眠っていたらしい賢者をずるずるとキッチンまで引きずってきた。連れてこられた賢者は寝ぼけまなこだ。しばらく放っておくと現状がだんだんとわかってきたのか、はっと顔を上げてきょろきょろとし出す。
「えっ、ここは、キッチン……?」
「起きたんですか。ほら、早く立ってください」
「あれ、ミスラ、寝たんじゃないんですか?」
「起きました。早く作ってください。白くて温かい……なんでしたっけ」
「ホットミルク」
「そうそうホットミルクです。それを作ってください」
「えっ、ホットミルク……?」
早く早くと急かされ、困惑しつつも賢者は立ち上がった。ああ、かわいそうにね、とオーエンは声をかける。
「ほら、早く作り直して」
「ええと、オーエンのも必要なんですか?」
さっき飲んだんじゃ、と言いかけた賢者だが、オーエンに睨まれて言葉を引っ込める。先ほど作ったばかりだというのに、また作れと言われればそうもなろう。すると賢者は、もしかして、気に入ってくれておかわりですか、とでも言いたげに目を輝かせ始めたので、仕方なく事情を説明する。
「ミスラに勝手に飲まれたんだよ。まだ飲んでない」
「じゃあミスラの分は」
「必要です」
「そ、そうですか。じゃあ今から作りますね」
再度ホットミルクを作る賢者を、ミスラとオーエンはふたりしてしげしげと見つめる。
「さっきははちみつを入れましたけど、どうしますか」
「はちみつも欲しい」
「俺もです」
「わかりました。シュガーはお好みで入れてくださいね」
「さっきのより甘くなるので別にいいです」
「あれには僕のシュガーを入れてたんだよ」
「そうなんですか。さっきのは甘すぎでしたよ。あなた好みかもしれませんけど、今度は気を付けてください」
「勝手に飲んで勝手に文句つけないで」
「はい、どうぞ。熱いのでゆっくり飲んで……」
カップを手渡すなりミスラはぐいとホットミルクを一気にあおる。
「ミスラ! 一気に飲んだら危ないですよ!」
賢者が慌てて声をあげる。ミスラはカップを置き、口元を手で抑え、苦しげに唸り始めた。
「熱い……口の中がびらびらします」
「火傷してるじゃないですか!」
「なんでですか、さっきのはすぐ飲めましたよ」
「さっきのは僕が冷ましてたんだよ」
ふうふうと冷ますオーエンを恨めしげに睨みつつ、ミスラは詠唱する。口の中の火傷を治療したのだろうか。そしてミスラは強敵との激闘を制した後のように、ホットミルクもあなどれませんね、とつぶやいていた。冷めた視線を向けながら、再びオーエンがホットミルクを飲もうとすると、ミスラが横からカップをひったくる。
「おい、何勝手に僕のを取ってるんだよ」
「これは部屋に帰ってから飲む分です」
「そんなに飲んで、おなか壊さないの」
「俺は強いですよ?」
「もうほっとこう……。はあ……また僕の分がなくなった」
「作ります!」
そう言った賢者にオーエンは首を振る。二度あることはきっと三度ある。
「いい、いらない。もうミスラから奪われたくない」
「さ、戻りますよ」
状況を引っ掻き回したミスラは依然マイペースだ。そのまま自分の部屋に戻ろうとする賢者の肩を掴んで引き止め、扉を出現させる。。
「賢者様、どこに行くんです。もう一回寝かしつけ頑張ってください」
「は、はい……、じゃあ、オーエン、おやすみなさ……あれ?」
オーエンはすでに姿を消していた。ミスラが賢者に気を取られているうちに、これ以上ミスラには巻き込まれまいと。
それからしばらくして、真夜中のミスラの部屋にて。
「なんで僕はここにいるんだろ」
「まあ、いいじゃないですか」
オーエンはミスラのベッドにいた。隣にはもちろん部屋の主が横になっている。先ほどまで自分は自室でひっそりと過ごしていたはず。どうしてこんなことに。今夜はとことんミスラに振り回されている。それが気に食わない。苛々としながらオーエンは問う。
「なんで僕を連れてきたの」
「なぜって、考えればわかることですよ」
賢者と共に部屋に戻り、ホットミルクを飲み干して寝かしつけてもらったミスラだったが、また目を覚ましてしまった。今日は寝かしつけがうまくいかない。賢者はおらず、今度は朝まで付き合ってもらおうと賢者の自室に空間をつなげたが、賢者は自室に不在だった。これ以上探しに行くのはもう面倒。どうするべきかと思ったそのとき、ミスラはひらめいた。
そうだオーエンを呼ぼう。
「というわけです」
「帰して」
当然聞き入れられない。諦めるほかない。
「それで、何かないの、眠れそうなものとか」
「そういえば、よく眠れるっていう花をもらったんですよ」
ミスラは起き上がり、棚の上に置いていた植木鉢を枕元に花を
「花? それでどうやって寝るわけ」
「花というか道具なんですかね。子守唄を歌ってうねうね動くらしいです」
「気持ち悪いな」
拍手をすると可憐な赤い花が土の中から出現する。そしてゆらゆらうねうねと動きながら花は歌い出す。透き通った綺麗な歌声が部屋中に響いていく。包み込まれるような優しい子守唄にふたりは眠気を誘われた。
「これ、なんて花なの」
「ええと、マーダーフラワーというらしいです」
「へえ……」
「眠れそうになったところを奇襲してくるらしいです」
ミスラが言うやいなや、マーダーフラワーは歌うのをやめ、獣のような咆哮と共に本性を現した。花が植えられていた鉢の土が盛り上がり、ぎらぎらと血走った目をした、毛むくじゃらのけだものが姿を見せ、ふたりに襲いかからんと手を伸ばしてきた。しかしミスラはきわめて冷静に、かつ、あくび交じりに対処する。
「アルシム」
詠唱した瞬間にけだものの身体ははじけ飛ぶ。けだものだったものと土、鉢の破片が部屋に飛び散った。ややあってから白い煙が上がり、けものだったものが消えていく。部屋に残されたのは土と鉢の欠片。言い捨てる。眠らせてくれるかと思えば。それに詠唱ひとつではじけ飛ぶようなそれにため息しか出ない。
「使えない」
「これだから粗悪品は」
オーエンがベッドにまで飛んできた破片を手で払っていると、ミスラがおもむろに払う手に向かって、そろりと手を伸ばしてきた。それに気づき、オーエンは先んじて手を避けて、彼をにらみつける。
「何のつもり」
「いろいろ試してみたいんです。手を握ってください」
「嫌だけど」
「まあいいじゃないですか、試すだけです。別に何もしませんよ」
従わなければ何かするということだろう。渋々手を差し出そうとして、ふと思う。彼はこの手が冷たいのを知っていただろうか。
心臓を物理的に隠したため、オーエンの手は指先まで血が通わず、熱が届かない。賢者はその冷たさを氷のようだと称し、動揺したほどだ。ミスラは知っていただろうか。触って、彼は何を問うだろう。オーエンの手を握ったミスラは首を傾げた。思わず手を引っ込めたくなったがしっかりと握られてはどうしようもない。やがてミスラは不思議そうに口を開いた。
「なんか冷たくないですか、あなたの手」
そう指摘してすぐにミスラは思い当たることがあったのか、ああ、とつぶやいてひとつうなずいた。
「なるほど、ホットミルクを飲んでないからですね。なぜ飲まなかったんです?」
「いや、お前のせいで飲めなかったんだけど」
自分のやったことを忘れたのか。勝手に飲み干したのも奪ったのもおまえだろうに。言っても仕方がないが。呆れていればミスラは握った手をさすり、はあと吐息を吹きかけ始めた。すりすりとさすり続けるミスラの手の感触と温度に、居心地の悪さを感じてオーエンは身じろぎをする。
「何、温めてるつもり?」
「はい」
「無理だよ、おまえには」
「だって冷たいままだと俺が眠れないので。燃やせば温まりますか?」
「やめなよ」
「はあ……」
「ねえ、そろそろ離して」
「なんとか眠れるようになりませんか」
「そんな力はないよ、おまえを傷つけることはできてもね」
「俺もあなたを殺すことはできますよ」
「張り合ってこないで」
しばらく握っても眠れそうにはないらしい。残念そうにミスラは何度目かのため息をついた。
「はあ、うまくいきませんね。あなたと眠れたらいいんですけど」
「なんで」
「面倒くさくないので」
まるで色気のない返事だったことに失望した自分に舌打ちしたくなる。別に期待していたわけじゃない。
「いなくてもどこに行ったか大体予想つきますから楽なんですよ」
「そう……そろそろ黙ってくれる? もう帰りたいんだけど」
「そうですね、あなたといても眠れそうにないですし、帰っていいですよ」
「散々付き合わせといて……」
今夜は本当に散々だ。オーエンはぶつぶつ言いながらベッドから抜け出す。そのままドアへ歩き出そうとするとミスラがオーエンを呼び止める。振り向くまいとするが強く袖を引かれては仕方なく、彼の方へ振り向く。
「何」
「手を出してください」
また手でも握る気だろうかと渋々差し出せば、ミスラはシュガーをひとつ作ってオーエンの手にのせた。
「ホットミルクに入れて飲んでください。おやすみなさい」
おやすみ、とは言ってやらず、オーエンはドアを閉めた。ホットミルクを作る気力は残っていない。部屋の前でオーエンはもらったシュガーを口に含み、真夜中の魔法舎を再びひとり歩き始めた。まもなく眠気がやってくる。
「悪いね、ミスラ。先におやすみ」
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