クラシックの一冠、日本ダービー。そこでふたりは互いに全力を出し合い、走り切った。その時間は二分半にもならないうちに終わりを告げた。熱気に包まれる中、皆と競い合った末に栄冠を手にした彼女はこちらに背中を向けていた。交わす言葉はない。伝えたいことは走りの中で伝えた。
だが、こちらを振り向かないまま、大歓声とともにターフを去ろうとする彼女を見て、なぜか衝動にかられた。彼女に声をかけなくては、と。彼女の名を呼ぶ。振り返る彼女に向けて、口をついて出たのは約束というには一方的な言葉だった。
『また、ターフで会おう』
その言葉に彼女は目を丸くして、わずかに瞳を翳らせて、首を横に振った。
梅雨に差しかかる頃、時刻は午前九時。早朝からオープンしているカフェに客は少ない。昨日から降る雨が止まないのが原因だろうか。徐々に雨脚が強まっていっており、客足に影響を及ぼしているかもしれなかった。そんな中、カウンター席に座っている少女がひとり。トレセン学園の生徒、シンボリクリスエスである。そんな彼女の向かい側に立つのは年嵩の女性、このカフェのマスターだ。ひとりカフェを訪れたクリスエスのために、マスターはサイフォンを使ってコーヒーを抽出しているところである。
湯が上部へと移動していき、コーヒーの粉と混ざって色がついていく。そんな抽出の様子をクリスエスはしげしげと見つめている。マスターは粉と湯が混ざり合った液体を混ぜ、その後下部のフラスコを熱していた火を消す。火が消えれば液体はフラスコに流れ込んでいき、途中のフィルターを通って、ろ過される。これにて抽出完了。コーヒーの完成である。
「Oh……」
感嘆の声をもらしたクリスエスにマスターはくすりと笑う。抽出されたコーヒーをカップに注ぎ、熱いから気をつけて、とクリスエスに差し出した。カップの近くにはミルクが入った容器を添えている。
「今日はあなたのリクエストでギムレットちゃんお気に入りの豆にしたわ。まずはブラックで香りと風味を味わって欲しいかな」
「Thanks. 感謝する」
クリスエスはカップを持ち上げて、淹れたてのコーヒーの匂いを吸い込む。いい香りだ。今日のコーヒーの豆はクリスエスが決まって頼んでいるものとは違う。先ほどマスターが言った通り、タニノギムレットが好んで頼んでいるものだ。一般的にはこの豆は香り高く、苦味や独特な後味が特徴的と言われているが、さてどうであろうか。
ふうと息を吹きかけてから一口含むと、明らかな違いを感じた。いつもクリスエスが頼むコーヒーは爽やかな酸味を感じ、後味はすっきりとしていてブラックでも飲みやすい。だがこれは。
「どうかしら? ギムレットちゃんの好きなコーヒーの味は」
もう一口飲んでからクリスエスはゆるゆると口を開く。
「苦味がある。後味が、いつものものとは違う。舌に苦味が確かに残る、そんな気がする。いつも飲んでいるものとは、違う」
「ふふ、違いを感じてくれて嬉しいわ。この種類はミルクとの相性がいいの。ブラックのままでもいいけれど、ミルクを足すと飲みやすいかもね」
マスターの言葉の頷くも、クリスエスはブラックのままコーヒーを飲み進める。独特の後味舌でなぞる。しばらくしてから彼女は独り言のようにマスターへ尋ねた。
「ギムレットは、最近ここに来ているか」
「ギムレットちゃん? そういえば最近は来てくれないわね。どうしてるかしら」
「……そう、か」
手がかりはないか。クリスエスは視線を落とした。ゆらゆらとコーヒーはまだあたたかく、芳醇な香りを放っている。
激戦だった日本ダービーを終えてからというもの、不思議とギムレットの姿を見かけることがなくなった。このカフェに来たのも彼女の行方をつかみたいというのもあった。彼女はこのカフェの常連だ。クリスエスもギムレットに誘われてから時折訪れるようになったという経緯がある。
いつのことだったか、以前ふたりで来たときには、ギムレットはこのコーヒーを飲み、高らかに笑っていたものだ。
『ククッ、ハーッハッハッハ! そうだ! こうでなくてはな! 芳醇なスパイスのような香り! ずんと来る強い苦味! 舌先に残る確かな後味! これこそワタシが求めるもの! まさに至高の一杯!』
そう絶賛していた。彼女が好んでいるコーヒーがおいしいのは確かだ。だが、しばらく飲んでいてもこのコーヒーの独特な風味には慣れない。ギムレットはブラックのまま上機嫌で飲み干していた。どんな表情をしていたか、思い出そうとしても、浮かぶのは、ダービー後、翳った瞳のギムレットだ。
『また、ターフで会おう』
『それはできない約束だ。クリスエス』
拒まれた言葉がよみがえって離れない。再び向けられた背中を見て去来したものは。ああ、苦味が、後味が、口の中に残る。
「……クリスエスちゃん」
マスターの声を聞き、クリスエスはゆるゆると顔を上げた。
「ミルクを入れて飲んでみて。ブラックで飲むのもいいけれど、ミルクを入れても十分おいしいのよ?」
そう促され、クリスエスはカップにミルクを注ぐ。黒いコーヒーは白いミルクと混ざり合い、優しい色合いに変わる。スプーンで混ぜて再びコーヒーに口をつければ、感じていた苦味や後味はずいぶんとまろやかになっていた。口に残っていたブラックコーヒーの後味はミルクを入れたコーヒーの味で上書きされた。
そのまま胸に去来していたものを振り切るようにコーヒーを一気に飲み干し、クリスエスは立ち上がる。
「Check, please. マスター、会計を」
クリスエスがカフェを後にしてから一時間後のこと。今日はお客が少ないわ、とマスターがひとりぼやいていると、からんからんと来客を告げる音が店内に響いた。
「いらっしゃ、あら、ギムレットちゃん、久しぶり……って、濡れているじゃないの!」
やって来たのはクリスエスの同期にして好敵手だというタニノギムレット。その髪や制服は雨で濡れていた。
「フッ、生涯をかけた一戦の余韻がなおもこの身を焦がしているとはな……。暗澹たる雨雲から熱を冷まさんと降る雨に対抗する術も持たず、へっくしゅっ」
「つまり傘がなかったのね。もう、何をやっているの。風邪引くわよ」
持ってきたタオルを手にしたマスターはギムレットのもとへ駆け寄り、髪や制服をごしごしと拭いてやる。くしゃみをしたことでギムレットも口を閉じておとなしくされるがままになっている。あらかた拭いてやった後、マスターはギムレットをカウンター席に座らせた。もうひとつくしゃみをしたギムレットに、マスターもため息をもらす。
「温かいコーヒーを淹れてあげるわ。いつものでいい?」
その言葉に、いや、とギムレットは首を横に振る。
「今日は、クリスエスがいつも頼んでいるコーヒーを頼むこととしよう」
「あら、ギムレットちゃんもクリスエスちゃんも、ふたりしてお互いの好きなのを頼むのね。気が合うんだから」
「クリスエスが?」
「一時間くらい前かしら、クリスエスちゃんも来たのよ。それであなたの好きなコーヒーが飲みたいって言ってね、ああ、あと、あなたを探していたみたいだったけど」
そんな会話を交わしつつ、抽出を終えたマスターは淹れたてのコーヒーをギムレットに差し出す。サイフォン式で抽出されたコーヒーの香りがあたりを漂う。いつもとは異なる香りを感じつつ、ギムレットはコーヒーを一口飲んだ。
自分が好んでいるものとは違う、苦味が控えめの、すっきりと後味も爽やかなコーヒー。舌にはほとんど苦味は残らない。彼女は以前言っていた。
『朝はブラックコーヒーを飲むことにしている』
それは気分を切り替えるため。そのためにはすっきりと後味が残らない方がいい。だからこの豆が好きだと。
「……実に、オマエらしい」
そうだ、次へ、次へと進め、オマエのなすべき革命のために。去り行くものを前にして感傷に浸ることなく、後ろ髪引かれることなく、前へ、そうだろう?
『また、ターフで会おう』
『それはできない約束だ。クリスエス』
こちらになど振り向かないで、秋へ、さらにその先へ、オマエは未来へ行けばいい。
そう呟き、ギムレットは自身の脚に触れた。あの一戦から、熱と疼痛が一向に引かないのだ。
梅雨入り、夏、そして秋。自分のこの先の展望は、まだ見えない。
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