スノードロップ(オエミス)

 甘い匂いがする。とはいえ菓子のような甘さではない。どろどろとせず、澄んだその匂いはどこかで嗅いだことがあるような気がした。どこだったっけ。いつだったっけ。ああ、そうだ。やがて思い出すのは白い花を指差す彼女の姿。その花は春を訪れを告げる花なのだと言って微笑んでいた。
『もうすぐ春がやって来るよ、ミスラ』
 ああ、そういえば、これは花の匂いだ。彼女が指差した春を告げる花の匂い。それを思い出した瞬間、彼女の姿がぼんやりと霞みがかった。またね、とこちらに手を振る姿はぼやけてしまってはっきりと見えなくなる。すべてがぼやけて消えていくのに花の匂いだけが残っていた。
 そこでミスラは目を覚ました。覚醒した彼の視界に入ったのは自室の天井とオーエンの顔だ。ミスラと目が合うとオーエンは顔をしかめ、つまらなそうに舌打ちをした。
「ちっ、何も起きなかった」
 いったい何のことだろうか。まあいいけれど。オーエンのことはそっとしておこう。ミスラが大あくびをしながら身体を起こすと、胸から膝へと花がすべりおちた。うつむいているかのように下向きに咲くそれを手に取って首を傾げた。なんだか見覚えがある白い花である。
「なんですか、この花」
「市場で買った花だよ。おまえ、誕生日でしょ。とびっきりのプレゼントを贈ろうと思って置いたのに……」
 ぶつぶつと続けているオーエンをよそに、ミスラはその花をしげしげと見つめはじめる。どこかで見たことがあるような。どこだったか。いつだったか。まあいいや、おなかもすいたことだし食べてしまおう。花を口へと運ぼうとしたそのとき、花の甘く澄んだ匂いに気づく。この花は。
『ほら、みてごらんミスラ。スノードロップの花が咲いた。もうすぐ春が来るよ』
 彼女の声が、言葉が、微笑みが脳裏によぎる。匂いが記憶を呼び覚ます。
「その花を置けば、相手が雪の雫になって消えるって聞いたのに……ミスラ?」
 何をしているの、というオーエンの言葉も気づかないようで、ミスラはスノードロップの花を見つめている。反応のない彼にオーエンはじれたように声をあげた。
「ミスラ」
「思い出しました。この花です」
「何が?」
「チレッタが教えてくれた花です。春の訪れを告げる花だと言っていました」
 その割には地味な花ですね、春はもっとにぎやかで派手なものなのにと返せば、彼女はおかしそうに笑っていた。
「今まで忘れていました」
 ありがとうございます。ミスラの口からこぼれた言葉にオーエンは顔をしかめる。スノードロップの花を抱きしめるミスラを睨みつけ、もう一度舌打ちをした。
「ちっ……こんなはずじゃなかったのに」
 そんな顔が見たかったわけじゃなかったのに。そう吐き捨ててオーエンは姿を消した。

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