寝室のカーテンを開ければ柔らかな日差しが入り込んできた。初夏の爽やかな早朝。近くでちゅんちゅんと雀が鳴いている。
いい朝だ。
(いい朝か?)
穹は不満だった。
泊まりたいとねだって、恋人としてアベンチュリンのもとに泊まった昨晩。どきどきと期待に胸を高鳴らせつつも、いい子だね、と寝かしつけられてそのまま寝た自分も悪かった。
起きれば六時。結局心地よくぐっすり眠ったのであった。
というわけで昨晩は特に何もなかった。
ベッドには恋人のアベンチュリンがまだすやすやと寝ている。よく眠れないことが多い彼がきちんと眠れているのは嬉しいけれど、それはそれとして。
もう一度言おう。
特に、何も、なかった。
補足しておくと、ふたりはまだキスさえしていない。頬やら額やら、手首といった部分に口づけを落とされはしたが、唇はまだ奪われていない。
大切にされているんだろうとは思う、が、本当は手を出したくないのかもと不安にもなった。
(そもそも好きと言ってくれたっけ)
もう何もなさすぎて、変わらなさすぎて、わからない。
付き合うってなんだろう。
恋人ってなんだろう。
好きは知っている。
相手を思うことはそんなの片思いでもできることだ。
じゃあ付き合うってなんなんだろう。
踏み出して、ようやく恋人になっても結局何も変わらない。ずっと待てをされたまま。これじゃあいつまで経っても待てができるようなんかならない。
恨みがましく睨みつけていると、アベンチュリンが目を覚ました。しばらく視線をさまよわせて穹の顔ををようやく捉え、安心したように笑う。つられて笑いそうになるのをこらえて、穹は起きたか、と仏頂面で声をかけた。
「おはよう……今何時?」
「六時。そろそろ起きて準備した方がいい。俺、朝ごはん作ってくるから」
そう言うと、アベンチュリンは手を伸ばしてくる。なんだろうと近づいてみれば、手を取られて、穹の手はアベンチュリンの頬にすり寄せられた。
「まだ……君といたいな」
甘えるような声音に胸が高鳴るもすぐ冷静になる。
それはどうして?
寂しいだけなら友人でもよかっただろう。
「……お前は仕事だろ。できあがるまでには起きろよ。ちゃんと食べて仕事行って。俺も食べたら帰るから」
そう言って穹は手を振り払う。惜しむような表情をされても気は変わらない。
「……あれ? 今日は君、休みって言っていなかった?」
「急用ができた。学生だって暇じゃないんだ、知ってるだろ」
そう言い捨てて穹は寝室を出た。
ああ、もう。
こんなに変わらないなら、恋人じゃなくてもよかったじゃないか。
(最後に話したのはいつだったかな)
ここしばらく、アベンチュリンは恋人の顔を見ていない。メッセージを送って返事はあったりなかったり。忙しいということで会いに来てくれない。数えてみれば最後に会ったのはひと月くらい前になる。
昼休みに入り、朝に彼に送ったメッセージを確認するが、既読はついておらず、返事もない。それを確認してデスクにスマホを置く。
「あっれー、先輩、なんか機嫌悪いっすね」
向かいにいた後輩が声をかけてくる。買ってきましたよ、と缶コーヒーを投げてよこしたのを片手でキャッチすると、おー、とわざとらしい拍手をしてくる。わりと腹が立つ。それに構うことなくなおも後輩は絡んできた。
「あれっすよね、恋人絡み。うわ、睨まないでくださいよ、図星だからって。喧嘩っすか?」
「した覚えはないんだけどね」
「だいたいそういうときって一方的に喧嘩してるんすよ。知らないうちに不安にさせたとか、浮気したとか構ってくれないとか」
「僕は一途な方だよ」
「いいっすねえ、あ、でもちゃんと好きって言ってます? 日常的に」
「…………はは」
そういえば、きちんと言っていないような気がしなくもない。
「言った方がいいっすよ。あー、いいっすねえ、こういう話題。俺もそろそろ彼女欲しいなー。前の彼女とは学生のときに出会ったんすけど、先輩はどうやってその人と出会ったんすか」
「そうだね……」
始まりは偶然と気まぐれだった。
二年くらい前のことだったか、その日は土砂降りだった。傘もささずに座り込んでいた穹を助けたのがきっかけだった。当時、頼れる人も近くにはいないという話を聞き、気まぐれで合鍵を渡したのがきっかけで少しずつ会うようになっていった。
穹といる心地よさに気付いたのは、離れがたさに気づいたのはいつだっただろう。会いたくなったときに、真っ先に穹の顔が浮かぶようになったのはいつのことだっただろうか。熱を出して心細くなっていたときのことだっただろうか。
そして彼の思いを知って、心を通わせて、恋人となったのが最近のこと。
「へー、じゃあようやく恋人らしいことができるようになったのって最近なんすね、ちゅーとかあれこれとか」
「まだだよ」
「え!? まだなんすか!? ちゅーすら!?」
「そうだよ。彼はまだ社会に出ていない大学生だ。今後、いろんな人と出会うはずだろう? 彼の人生の可能性を奪うわけにはいかないからね」
これは、目の前で奪われ、可能性を握りつぶされたことがあるアベンチュリンの願いでもある。彼には自由でいてほしい。たくさんの人と出会って、それでも自分のもとに留まってくれるのなら嬉しい。自分しかいないと盲信したままに、夢が覚めて、愛が冷めてしまうくらいなら、深入りしない方がいい。
離れがたいと思っている時点でもう遅いのかもしれないが。
「へー、お相手、大学生なんですか? はー、若いっすもんねえ……大学生。うちの妹も大学生なんですよ、この辺の」
「へえ、もしかしたら同じ大学かもしれないね」
「あはは、そうかもしれないっすね。同じだとしたら大変だなー。結構ガツガツいくタイプなんで、気をつけさせときますね。最近も灰色くんって呼んでる後輩が可愛いって話してて、今度ふたりで飲むって話してたなー今日だっけ? 目をつけられてないといいですけどねえ」
そう言って後輩が笑っているとメッセージの通知音が鳴り、アベンチュリンはすかさず自分のスマホを確認した。通知が来ている。穹からだ。即座にアプリを開き、全文を確認する。じっくりと確認してから、アベンチュリンは後輩に尋ねた。
「……その飲み会、どこでやるか聞いているかい?」
「え? それは流石に聞かないとわかんないっすけど、え? 先輩顔やばっ!」
確認した穹からのメッセージにはこうあった。
『今日は行けない。女の先輩と飲み会だから』
頼れる人もなく、土砂降りの中座り込んでいたのを助けてくれたのは、アベンチュリンだった。
『頼れる人がいないなら、僕を頼ってくれていい。この部屋の鍵を渡しておくから、来たくなったらおいで、僕に会いたくなったらここにおいで』
変な人だと思った。頼れる人だと思った。けれどちょっとほっとけないと感じるところもあって、どうにかそばにいてあげたくて、やがて好きだと思うようになった。
恋人であればもっとそばにいられると思っていたけれど、そばにいても寂しくて、こんなにももどかしいのなら。
飲み会が始まって一時間が経った。穹は先輩と隣同士に座ってウーロン茶を飲んでいた。個室のその部屋にいるには穹と先輩のふたりだけである。
「ええー、キスもまだなのー!? 恋人なのに? ひどーい!」
先輩の、ひどい、という言葉に穹の胸がずきりと痛む。その言葉は適していないような気がしたが、自分が不満に感じているのは現状それなので頷くほかない。
大学のサークルで知り合ったこの女の先輩には、何かと飲み会に誘われていた。今まで断っていたが、いよいよ断りきれずに承諾したのが昨日のこと。ふたりきりの飲み会だと知ったのは今朝のこと。昼にアベンチュリンにそのことをあえて連絡したのは。
(やきもち焼いてもらいたいのかも……焦らせて、慌てさせたいのかもしれない……)
年上らしく余裕綽々な彼は常に落ち着いていて、焦って背伸びをする穹を笑顔でなだめている。そんな彼が慌てふためく姿を見たら、もやもやとしたこの気持ちも、少しは落ち着くのかも、と意地の悪いことを考えている。
今、穹と先輩がいる居酒屋は、大学の方の駅でもなく、穹の自宅のある駅の方でもなく、アベンチュリンの自宅のある駅の方である。一回だけ彼と行ったことがある店だ。あまり酒が飲めない穹に合わせて、気を遣ってくれたことなどを思い出しつつ、穹はもう一口ウーロン茶を飲んだ。いつだって彼は優しかった。その優しさにずいぶんと甘えていた。
「そっかー、じゃあ結構寂しいんでしょー?」
「ええ、まあ……」
話が進むにつれて先輩は徐々に近づいてくる。今や肩がぴたりとくっついている。家族でもなく、恋人でもない人との距離が近い。それがだんだんと気味が悪くなってきた。少なくとも彼は、急に距離を詰めるなんてことはしなかった。居心地が悪い、早く帰りたい、そう思い始めてきたとき、先輩は穹の腕に絡んで、胸を押しつけてきた。
「へえー……、私だったらそんな思いさせないんだけどね?」
「なっ……」
咄嗟に穹が振り解こうとすると、先輩は心底不思議そうに穹を見つめる。そして恥ずかしがらなくてもいいじゃん、とより一層腕に絡んでくる。
「キスもできなくてイライラして寂しいんでしょ? つまり欲求不満ってわけじゃん。それなら今晩解決できるよ。私のお家においで? 一緒に過ごそう? どろどろに甘やかしてあげる。君がしたいことも全部私がしてあげるからさ」
恋人ですらない人からの提案に愕然とし、穹は首を横に振る。欲求不満。そうかもしれない。けれどそれは彼女が解決できることではない。
「先輩は、俺のことが好きなんですか?」
「好きだよ?」
「……どうして?」
「可愛いから。好きだから。欲しいから。単純でしょ?」
「俺は、好きじゃないです。恋人もいるのに、そんなことしたくない」
「あはは、純情ぶっちゃって、ほんとは欲しいくせに。いい? キスもその先も、好きな人以外でもできるもんなんだよ?」
そんなの知らない、頷きたくない、わかりたくない。
「大丈夫。身体から伝播していくもんだから」
違う。そんなことない。触れたくもない、触れてほしくない。先輩にキスをされそうになり、穹は慌てて先輩を押しのける。
「ええ〜、キスくらい許してよね」
「い、嫌です、俺は……!」
その瞬間、閉まっていた個室の戸ががらりと開いた。
「穹」
名前を呼ばれ、振り返ると。
「迎えに来たよ」
そこには恋人が立っていた。
「……アベンチュリン」
「え? なんですか、誰なんですか? あなた」
先輩が困惑した様子で尋ねるのを、アベンチュリンは落ち着き払った態度で対応する。
「僕かい? 僕はね、彼の恋人だよ。そろそろ帰る時間かと思ってね、迎えに来たんだ」
「……アベンチュリン」
「帰ろう」
そう言ってアベンチュリンはふたりを引きはがす。彼に手を引かれ、穹は席を立たされる。
「ま、待ってください、勝手に何を!」
「ああ、お代なら置いておくよ。ちょっと多くつけておこう。好きに飲んで、好きに使ってくれ。ひとりでね」
そう言ってアベンチュリンはお代を先輩に渡し、そのまま穹を連れ出した。
外は予報外れの雨が降っていた。駅前にはまだ多くの人々が歩いている。アベンチュリンに連れられるままにふたりで歩き出す。
「アベンチュリン、なんで……」
「なんでだろうね?」
いつもより冷えた声音に、強く握られた手。彼が怒っていると気づき、穹は足を止めた。このまま彼のアパートに帰ったら。その先は想像したくない。足を止めた穹に気づき、アベンチュリンが不思議そうに振り返る。
「どうしたんだい?」
「か、帰らない」
怒られたくない。首を振って動かない穹に、アベンチュリンは幼い子に言い含めるような声音で言う。もう一度穹の手を引くが、そこには有無言わせない強さがあった。
「帰ろう、僕のアパートに。久々だから覚えていないかな。ちゃんと連れて行ってあげるから、手を離さないでね」
「かえらない、帰らない、そこは、俺の帰る場所じゃない」
「はは、わがまま言わないで。駄々をこねないで。そんな態度を取るんだったら……」
なおも抵抗を続ける穹に、アベンチュリンは冷え切った声で告げる。
「君を、嫌いになるよ?」
「え……」
その瞬間、穹の周りの音が消えた気がした。目の前にいるアベンチュリンは笑っているのに笑っていない。冷たい目をした彼に穹は震えが止まらなくなる。
嫌いになる。そんなの嫌だ、怖い、お願いだから、そんな目しないで。
「わ、わかった、一緒に帰るから、だから、嫌いにならないで……!」
そう言って腕にすがりつく穹を見て、アベンチュリンはため息をつき、傘もささず、そのまま彼を連れて歩き出した。
誰にも奪われたくない。
僕が奪いたくない。
彼にはここにいてほしい。
恋人として繋ぎとめたら、彼はそばにいてくれるだろうか。
沈黙が続く中、どれだけ歩いただろう。永遠にも似た時間をかけて、ようやく見慣れたアパートに到着した。鍵を回してドアを開け、ふたりして雨に濡れながらアベンチュリンの自宅に帰ってきた。
アベンチュリンは玄関の灯りをつけて、穹を連れてそのまま部屋に入る。手にしていたカバンをどさりと置いたのを見て、穹が手を離すと、そのまま何も言わずにアベンチュリンはカーテンを閉めて、部屋の灯りをつけた。あらわになった彼の表情はまだ硬く、それを見た穹は目の前が暗くなった気さえした。
嫌われた?
もう戻れない?
もう、手遅れ?
足が崩れ落ちそうになる瞬間、アベンチュリンは穹に手を伸ばし、強く彼を抱きしめた。久々のアベンチュリンの温かさに泣きそうになる。でも、これで最後、お別れ、なのだろうか。それは嫌だと抱きしめ返そうとしたとき、アベンチュリンがつぶやいた。
「……どうしたらいい?」
「え?」
あまりにも弱々しい声だった。
「どうしたら、君は戻ってきてくれる? 僕を嫌いにならないでくれる? 好きでいてくれる? どうしたら君がここにいてくれるのか、もうわからない」
何をあげたらいい。
何を差し出せばいい。
君を誰にも奪われたくない。
君を繋ぎとめるなら。
「僕は、どうしたらいい?」
力を緩めたアベンチュリンは穹の顔を覗き込む。泣きそうな表情を浮かべていることに気づき、穹は目を丸くした。
「……俺のこと、嫌いになってない?」
「なっていないよ。さっきのは、嘘だよ、脅してごめん、僕は」
面と向かってはっきりと。
「君がずっと好きだよ」
好きだと言われたのは初めてだ。嬉しくて、ぎゅうと胸が苦しくなる。夢みたいで、にわかには信じがたくて、だから確かめたくて穹は恐る恐る問う。
「……本当に?」
本当に、とアベンチュリンは念を押す。
「僕は嘘をつかない。信じてくれないか。離れたくない。離したくない。君を好きでいてもいい?」
「……好きで、いてほしい」
「……よかった」
「じゃあ、なんで触れてくれないのか聞いてもいいか?」
好き合うならば、恋人ならば、抱き合ったっていいだろうと思うのに、いっこうに触れてくれないのはどうして。嫌っていないのならどうして。
「……君は若いから。まだいろんなひとと出会える。もっとずっといいひとと恋をする可能性だってある。その可能性を奪ってはいけないだろう? 深入りしてから傷つくのはお互いのためにはならないと思ったんだ」
「……それでも、俺はお前が、お前だけが好きだと思う。本気で好きだから、奪われたっていい、それは、絶対に、傷になんかならない」
真っ直ぐに言い切った穹に、アベンチュリンは目を細めた。
「……ありがとう。でもこれは年長者としての忠告なんだ。まだ君は大人じゃない。精一杯、いろんなことを頑張って、いろんな人と出会ってほしい。それで、君が、大人になったらまた確かめ合おう」
君が好きなままか、僕が好きなままか、まだそばにいたいと思えているか。
そんなの答えは決まっているのに、と思うが、アベンチュリンはこの点については退く気はないようだ。そんな大人の発言をしながら、穹を離す気がないのは先ほどから伝わっている。だから穹はわかったと頷いた。
「そのとき、まだお互い好きなままだったら、そばにいたいとまだ思えていたら、そのときは、お前に触れてほしい」
でも、と視線をそらしながら口ごもりながら穹は言う。
「でも、キスくらいは、許してほしい……んだけど……」
「……そうだね」
目を閉じたアベンチュリンは穹の唇に自分のそれを合わせた。やがて控えめに差し出された舌を絡め、心地良さそうに穹が目を閉じた瞬間。
「……くしゅんっ」
慌てて顔を離して穹がくしゃみをした。そしてぶるりと寒そうに体を震わせた。そういえば雨に濡れたままだった。このままでは風邪をひく。
「冷えるね。シャワー浴びておいで」
「……入ってくる」
素直に頷く彼を見送り、アベンチュリンは椅子に腰を下ろしてテーブルに突っ伏した。
「……よかった」
そうつぶやき、やがて深い深い安堵のため息をついた。
昨夜の雨も上がり、初夏の爽やかな早朝。
寝室のカーテンを開ければ柔らかな日差しが入り込んできた。近くでちゅんちゅんと雀が鳴いている。
いい朝だ。
(本当にいい朝だ……)
アベンチュリンはベッドの方へと戻り、床に膝をつく。まだ眠る穹の頬を撫でていると、穹は目を覚ましたらしい。しばらくぼんやりとアベンチュリンを見つめたのち、へらりと笑った。
「おはよ……」
「おはよう。まだ六時だけど、起きれるかい?」
「今日は一限から講義あるから……起きる……」
「今日は僕が朝食を作ろう」
「頼む……」
頭を撫でてから寝室を出て、アベンチュリンはキッチンへと向かった。今日はスクランブルエッグとトーストにしようか。コーヒーもつければ完璧か。などと考えていると、部屋の戸が開き、足音が聞こえてきた。起きたのかな、早いなと思いながら振り返れば、穹がアベンチュリンのもとにやってきて、ぎゅうと抱きついてきた。そして顔を上げ、穹はそっと触れるだけキスをしてくる。そしてはにかみながらアベンチュリンに言った。
「おはよう。……今日もお前が好きだよ、アベンチュリン」
「……ありがとう」
僕も好きだよ、とふたりはキスを再び交わす。そして今一度彼の方から抱きしめた。離れないで、そばにいて、できることならこの先も。
「ずっと好きでいてくれると嬉しいな」
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