始まりはからかいのつもりのキスだった。
「……今のは?」
「親愛の証さ」
次は親しみを込めたそれで。
「……なんで」
「知らないのかい、これでも君のことを気に入っているんだよ」
その次は。その次が。その次も。次々と続いていって、今は。
「これだけじゃ、足りないね?」
表面を触れ合うだけじゃ物足りなくて、ついには深い深い交わりに至っている。何度目の交わりとなるかはもう数えていない。
彼とはどんな関係?
彼はともだち。
(でも、ともだちならこんなことしない、かな)
難しいことは今は何も考えられない。
合わせた唇があつい。
重ねた手があつい。
触れ合わせた肌はどこもかしこもあつい、あつい、このままとけてしまいそうなくらい。
すきだな、とぼんやり思う。
彼と共有する時間も温もりも心地よい。
心地よいのに時折訪れる快楽はまどろむのを禁じる。ついには耐えきれなくなった彼が、たすけてと抱きついてきた。
「だいじょうぶ」
そう言いながらも助けはしない。
「一緒に溺れよう」
きみとならどこまでもいけるはずだから。
彼が背中に爪を立てる。その痛みがわからなくなるくらいの強烈な快楽を味わって、ともに果てた。訪れた幸福なまどろみの中、再び口付けて、誘うように差し出された舌を絡ませ合う。
どこまでも、いつまでも、この心地よさに浸っていたい。
けれど。
「……アベン、チュリン」
「なんだい?」
「もう、やめたい」
「え?」
「こういうの、もうやめたいんだ」
この関係をふたりはいつまで続けられる?
泣き出したともだちにかける声が見つからない。混乱でいっぱいの頭のまま、アベンチュリンは問う。
「ええと、どうしたんだい、星核くん」
「やめたい……こんなの、むなしいだけだ……」
穹がぐずぐずと泣く様子はいとけない子どものようだった。
「もう……嫌だ。もう俺を使わないで……。言ってくれたら、それでよかったのに……」
嫌?
使う?
言ってくれたら?
いったいなんのことだ。
「ねえ、それはどういう……」
なだめようと伸びた手は瞬時にはたきおとされ、明確な拒絶にアベンチュリンの思考が止まる。
嫌いになった?
嫌だった?
何をどうすればよかった?
言いたいことはたくさんあった。
聞きたいこともたくさんあった。
けれどアベンチュリンは。
「……わかった。もう、やめよう」
物分かりがよくて臆病で、これ以上はだめと感じたのなら、素直に相手の要求を飲んで退く。そんな人間だった。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「……ひとりで」
「こちらの席にどうぞ」
通された席に座り、アベンチュリンは注文したピカ白ぶどうソーダを飲みながら、ひとりの時間を過ごしていた。ここは昨日の予定では、穹と来るつもりだったレストランである。今度はUFOバーガーを手を使わないで食べる! と穹が無邪気に言っていたのはいつのことだったか。会うたびに、きらきらと琥珀色の瞳を輝かせていたのはいつまでのことだったか。
あのときに、かわいいなあ、と思って、からかいのキスなどしなければよかったのか、抱かなければよかったのか、今さら後悔したところで、もうどうしようもないのだけれど。
彼にはたきおとされた手をさすり、ピカ白ぶどうソーダを一気にあおる。酸味と苦味が口の中に残り、身体が急激に冷えたような感覚に陥る。そんなときに彼は冷えた手をさすってくれたこともあった。熱いくらいのぬくもりをもう感じることはないのか。
寂しいな、とひとりため息をついていると、後ろの席からはかしましい話し声が聞こえてきた。若い女性がふたり仲良く話をしているらしかった。
「え!? 彼氏できた!? いいなー!」
「う、うん……昨日の夜とかも……泊まって、その……ね?」
「へえ〜、超仲良しじゃん! いいね! いい人見つかったじゃん!」
「でもね……彼、夜の、そういうの、終わったら、すぐ帰れって言うの……。誘うのも始まるのもあっちからで、私がそういう気分じゃないなって思っても、嫌われたくなくて、言えなくて……それに彼、全然好きって言ってくれなくて……私ばっかりが、好きみたいで……」
「はあ!? そんなの、あんた、彼女じゃなくて、性欲処理として使われてるだけじゃん!」
飛び出してきたあけすけな単語にぎょっとする。落ち着いて、という声も聞かず、彼女は興奮したままにまくしたてる。
「好きって言わない? 始まりも終わりもあっち主導? 付き合ってないじゃんそんなの! だめ! そういうの絶対だめ!」
「で、でも……」
「だめ! あたしは許せないの! あたしの大事な友達をそんなふうに扱うなんて! ムラムラして発散したくて、あんたを使って気持ちよくなるんだったら、ひとりで勝手に慰めてろっての!」
ひどい男もいたものだ、と聞き耳を立てていたアベンチュリンはふと思う。
彼にとっての自分はどうだっただろう。ひどい男ではなかったと胸を張って言えるだろうか。
好きと言わず、けじめもつけず、ずるずると、逢うたびに溺れるくらいに抱く、ともだち。
ともだち?
そうじゃない。
ともだち?
それでは済まされない。
じゃあ彼とはどうありたかったのだろう。
泣かせたくなかった。
嫌いになってほしくなかった。
好きでいてほしかった。
こうしてひとりでいるのにはもう戻れない。
彼と一緒にいたい。
彼のそばにいたい。
彼のことが好きだ。
だから、聞かなければ、言わなければ、伝えなければ。
アベンチュリンはスマホを取り出し、メッセージを開く。送り先は穹だ。
『今から会えないかい? 話がしたい。話だけだから、安心して。レストランで待ってる』
ややあってから既読がつき、了承のメッセージが返ってきた。
からかいのキスで思い火は灯された。
「……今のは?」
「親愛の証さ」
彼にとっては遊びのつもりだとしても。
「……なんで」
「知らないのかい、これでも君のことを気に入っているんだよ」
こちらにとっては本気の恋だ。
その次は。その次が。その次も。次々と続いていって、重ねるほどに思いは届かないのだと思い知る。
「これだけじゃ、足りないね?」
そうだ、足りない。
言ってよ、お願いだから、と口にもできない。心は叫んでいる。けれど身体は表面を触れ合うだけじゃ物足りなくて、深い交わりを欲してしまっている。
彼とはどんな関係?
彼はともだち、なんかじゃない。
「たすけて……っ!」
助けてくれない彼の背中に爪を立てる。
お願いだから、このむなしい関係を、どうか終わらせて。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「連れがいるんだけど……あ……」
レストランを訪れた穹は、ひとり座っているアベンチュリン目が合い、そちらへと移動する。彼の向かいの椅子に腰を下ろし、顔を上げたが、こちらを見つめてくる彼の瞳から逃れたくて視線をそらした。
話ってなんだろう。今から何を言われるのだろう。別れ話だろうかと思うと、早くも逃げたくなってきた。別れ話もなにも、ふたりは付き合ってすらいないけれど。
「おはよう。来てくれて、ありがとう」
「……うん」
「何か注文するかい? クロックピザがいいかな? それともUFOバーガーにする? 飲むならクラシックスラーダでも……」
「いらない。話ってなんだ?」
提案をさえぎるように言えば、アベンチュリンはお節介だったかな、ごめんね、と謝ってくる。彼が謝ることはないのに。瞳はきっと悲しげな色を湛えているのだろう。見なくてもわかった。
「本題に入ろう。話したいのは、今朝のことだ。どうして、やめたいって言ったのかな?」
「……やめたいから」
それでは答えになっていないのはわかっている。アベンチュリンも困ったように、詳しく聞かせてほしいな、と言ってくる。そうだろう。こちらの気持ちなどわからないだろう、この、わからずや。
「このままけじめもつけないで、ずるずると、身体だけの関係を続けるのは、もう嫌だ」
ともに溺れるほどにむなしくなる。そういうのは、好きな人とすること、と教えてくれたのは誰だっけ。だから了承した。了承してしまった。最初こそ幸せだった。けれど幸せな感覚は徐々に変色していった。重ねるほどにこんなにも悲しく、むなしくなるとは知らなかった。
「好きって、言ってくれたらよかったのに。嘘でも、好きって言ってくれたら……それでよかったよ……」
その嘘でぽかりと空いた穴は埋められる。その嘘を大切に抱いたまま、抱かれる続けることもできただろう。けれど彼は嘘をつかない人だ。そんな救いも与えてはくれなかった。ゆるゆると穹は顔を上げた。
「俺は、お前が好きだよ。知らなかっただろ」
アベンチュリンが息を呑む。知らなかったんだな、と笑いたくなる。あれほど抱かれても、結局こちらの片思いのままだった。
「だから終わりにしよう。終わりに、してくれ……」
ふたりの間に沈黙がおりた。周りからは話し声や笑い声が聞こえてくる。幸せそうな空気の中、ふたりの間には冷たいそれが流れている。もういいか、と穹が立ち上がると、アベンチュリンがその手をつかんだ。
「今度は僕の話を聞いてくれるかい?」
「……今さら、何を話すつもりなんだ? 好きだと言うつもりなのか?」
「そうだよ。ずっと、伝わっているものだと思って、言ってなかったからね」
君が好きだよ、とアベンチュリンが言う。その言葉にじわりと胸が熱くなる。今さら、なのに。
「……お前は、嘘をつかないんじゃなかったか」
「そうだね。僕は嘘をつかない。だからこの気持ちは本当だ。好きだよ、君と一緒にいたいんだ」
「……そんなの、信じられない。この後も俺を抱くために言うんだろ」
「本当に、好きだからだよ」
「じゃあなんで、今になって言うんだよ……」
もう終わりにしてほしいのに、このままじゃ終われない。彼に好きだと言われて灯された火で、胸が熱いままだ。目頭も熱い。これでは諦めきれない。
「終わりにしてくれって言ってるだろ。手を離してくれ」
「君は僕のことが嫌いかい?」
「嫌いだ」
「さっきは好きって言ったのに?」
「き、嫌いになった……」
嘘だ。今も好きなままだ。
「そう……じゃあ……」
アベンチュリンの手が離れた。咄嗟に伸ばしかけた手を押さえて、穹は彼からの終わりの言葉を待つ。やがて彼は今一度穹の手を取り、告げる。
「また、僕を好きになってくれないか」
「え……?」
「諦めが悪くてごめんね。どうしても君と一緒にいたいんだ。……好きなんだ」
「そ、そんなの……」
今さらだという言葉はもう言えない。諦めが悪いのは自分だってそうだ。一緒にいたいのも好きなのも。高鳴る鼓動が物語る。どうしたって嘘はつけない。また離れていくアベンチュリンの手を、今度は穹の方からつかむ。
「星核くん?」
「さっきの、嫌いっていうのは、なし……」
「それって……」
「俺だって嘘はつけない。だから……その……やっぱり、その……何笑ってるんだよ!」
「いや、ごめん、嬉しくて、つい……。それで、今後は僕はどうしたらいいかな」
どうしたら君と一緒にいられるかな、という問いに、穹はこほんと咳払いをしてから答える。
「これからは、ちゃんと、好きって言ってくれ……」
「わかったよ、心がける」
そう誓ってアベンチュリンは穹の手の甲にキスを落とした。
「お互いにちゃんと好きだと伝えていこう」
そして数日後、いつものホテルの一室で。
「好きだよ」
「うん……」
「好き」
「う、うん……」
「君のことが好きなんだ」
「ああ、もう! 何回言うんだよ! わかった、わかったから!」
顔を真っ赤にさせて穹はソファから立ち上がった。そんな彼をアベンチュリンは笑顔で見つめている。それでも懲りもせず、好きだよとまた言うので、穹は彼から離れてベッドにダイブし、枕に顔を埋めた。
「もう、もうわかったって言ってるだろ!」
「お気に召さないかい? ……好きって言わない方がいい?」
「いや……言わないのは、嫌だけど……も、もう少し手心……とか……!」
「……嫌いになった? 迷惑かな……?」
「な、なってない、けど!」
「それはよかった」
そう言ってアベンチュリンはベッドの方へ腰を下ろして、好きだよ、と穹にまた何度も思いを言葉にする。再び繰り返されるそれを恥ずかしがって、穹が逃げようとするのを抱き寄せて阻んで、嘘偽りない言葉を贈る。
君に伝わっているかな。
もう君は、僕にとって。
「大好きな恋人だよ」
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